<#11-1>キレる配偶者(1)~ストレスは副次的
(はじめに)
夫婦関係の問題に関して、パートナーが「キレる」というものがあります。これは結構寄せられる相談でありまして、DVでもそうであり、また、DV以外の問題においても見られる問題であります。
「キレる」というのは、なかなか正確に定義しにくい概念であるように私は感じております。端的に言えば、ある人がいきなり激怒するといった場面で用いられる表現であります。後に述べるように、「キレる」人は本当に「怒り」を体験しているのかどうかも疑問であり、キレるということと激怒や憤怒を同一視していいのか私には確信がありません。
また、「キレる」をどこまで含めるのかという問題もあるように私は思うのです。非常に狭義に限定したいとも思うのですが、本節では広義に捉えてみたいと考えています。従って、内容によっては、「これはキレるにあてはまらない」と思われる個所も出てくるかもしれません。
定義に関することは後に取り上げることにして、本節では、私の経験した範囲において、「キレる」ということを若干整理してみたいと思います。
まず、パートナーがキレるという問題について、そこにはさまざまな夫婦があり、さまざまな状況があり、人間関係もさまざまにあるのです。最初に私なりに分類してみたいと思います。そこからさらにテーマを掘り下げることができればと思います。
そして、最初にお断りするのでありますが、ここではキレる人に対しての解決などは示されておりませんので、それを期待する人は期待外れに終わることでしょう。多くの人はそれをするのですが、現象を理解するよりも解決、それも出来合いの解決とか助言を求めてしまうのであります。それは逆でなければならないと私は思います。
(ストレスは副次的)
ところで、2020年から2021年へと、日本はコロナ禍に見舞われました。宣言が発令され、私たちは自粛生活を余儀なく送ることになりました。会社も学校も休みになり、家族が四六時中一つ屋根の下に集まるという状況も生まれました。非常に窮屈で、不自由な思いを経験しました。私もその一人であります。
そのような状況において、家庭内の暴力や暴言といった問題が多発したということも私は聞いております。実際、私のところにもそういう相談を持ちかけたクライアントも多かったように思います。
これに関して、ストレスで説明する専門家さんもおられました。家族が限られた空間に常に一緒にいることのストレスによって、暴力や暴言などの問題が生まれているといった説明がなされているのを私も耳にしたことがあります。
ここで一つ提言したいことは、ストレスでもって説明されていることは、本当は何も説明されていないのに等しいのであり、そこで納得するなり分かったという気になるのはよろしくないことであり、もう少し理解を深めていく方がよいであろうということであります。
ストレスのせいでキレたのだと自ら言う当事者は、本当は自分を理解していないのであり、ストレスのせいでパートナーがキレたのだと言う人は本当にはパートナーを理解できていないのです。それは便利な説明を自他に当てはめたというに過ぎないのであります。
ストレスという概念は、非常にわかりやすくてイメージしやすく、その上、実に便利な言葉であります。なぜそういうことをしたのかという問に対して、どんな問題行動であっても、「ストレス」の一語で説明できてしまうのであります。そして、それで何かが説明されたと錯覚を起こしてしまうと私は考えています。
まず、ストレスは、問題行動とか問題場面の発端の部分に関係するものであると私は考えています。その冒頭にしか関与しない概念で全体を説明しようとするところに無理が生じるのであると私は考えています。
そもそも、ストレスなる概念は物理学用語でありました。ハンス・セリエはこの概念を生理学に持ち込んだのであります。心理学ではなく生理学であるのです。そこから、心理学者が非常に曖昧な感じで心理学に応用しているように私には思われるのです。そして、ストレスなる言葉がかなり一般的に普及していって、すぐにその言葉を使用して説明を終えるという安易な風潮が生まれたのかもしれないと、あくまでも私の個人的な印象にすぎないのでありますが、私はそのように思います。なんにでも使用できる便利な言葉であるだけに、つい使用したくなるのでしょう。
ストレス学説の難点は、人間を物理的現象として捉えてしまうところにあると私は考えています。その最大の欠点は、人間は外界からの影響を単に受け身的に受け取り、その影響に対して無力であるという観点が生まれてしまうところにあると私は考えています。
そうではなく、人間は外界の影響にさらされ、その影響を受けるとしても、無力で受け身的に影響されるだけではなく、外界の影響に対して、人間は主体的に働きかけることのできる存在であります。その影響を緩和することも、抵抗することも、選択することも、受け付けないことも、変えることも、人間には可能であると私は考えています。そうした可能性が視野に入らなくなり、考慮されなくなるのではないかという危惧が私にはあります。つまり、ストレス学説を過度に信奉すると人間の主体性や積極的な側面が見落とされることになると私は考えています。
加えて、ストレス学説はストレスそのものを説明できないという欠点があるように思うのです。なぜ、ある人にとってそれがストレスとなるのか、なぜあの反応ではなくこの反応が出るのか、なぜあのように発展せずこのように発展するのか、ストレスに還元させてしまうとこうした問は生まれなくなるのではないか、とも私は思うのであります。
ストレスという概念は、もしそれを使用するとしても、あくまでも副次的な意味しかもたないというのが私の観点であります。ストレスそのものは現象のわずかの部分にしか関係していないものであると考えております。
以上、述べたように私は「キレる」という現象に関してもストレスという概念は使用しません。そういう説明ではなく、もっと違った説明を展開することになると思います。
これから本題に入っていくのですが、キレるパートナーを私なりに整理、分類してみたいと思います。これは大まかに4つのパターンというかタイプに分けることができ、さらに下位分類が可能であるように思います。一つ一つ見ていく予定をしておりますが、内容が煩雑になるかもしれないので、個々のケースは別項にて記述し、先に論述を進めていくことにしようと計画しております。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)