<#016-35>「○○すれば治ると思います」
<Q>「○○すれば治ると思います」とか「○○すれば良くなると思います」など
<状況と背景>
質問文には違和感があるかもしれませんが、要するに、何か行為をすれば、その行為によって自分又は相手が治るという意味内容の発言であります。
○○の部分には何が入っても構いません。結婚または離婚、就職または転職や退職、引っ越しとか家出、独り暮らし等々であります。
対象は自分である場合もあれば、家族などの他者である場合もあります。他者の場合というのは、つまり、仕事を始めたら夫も真面目になると思うとか、世の中に出たら子供もきちんとするだろうと思う、などであります。そのような他者に対する内容も含めています。
このようなことを言うクライアントはけっこうおられるのです。単なる希望的観測を述べているといった感じの人からかなり真剣にそう考えている人まで、真面目さの度合いはさまざまであります。
また、クライアントのみならず、専門家でさえそのように考えている人もおられるようであります。
クライアントが述べる場合、カウンセリングの経過中になされることが多いように思います。時に、カウンセリングが行き詰ったようにクライアントに感じられている場面で発せられるものであるように私は思います。専門家が述べる場合でも同様であるかもしれません。
<A>
これに対する私の回答は、「まず、そんなことはありません」であります。
<補足と説明>
まず、「○○すれば治る」という思考の背景には環境因説の支持があると私には思われるのです。上記のことはすべて「環境を変えれば治る」と表明しているに等しいように思われるからです。従って、この考えをする人は、環境によって自分が悪くなったのであり、同じように、環境が変われば自然と自分が良くなると信じているわけであります。
私自身は環境を軽視しているわけでもありません。環境が変わると確かに調子が良くなることもけっこう見られることであります。ただ、クライアントの多くはそれ以前の状態に戻ってしまうのであります。環境を変えても、それ自体は一時的な効用しか見られないものであると私は考えています。なぜそうなのかということも後ほど取り上げたいと思います。
既述のように、専門家でさえそのような考えを有していることもあります。ある精神科に通っていた女性クライアントでしたが、彼女は「医師の言うとおりにしていたら、私、何回引っ越さなければならないの」とおっしゃっていました。どうやらこの医師は彼女の治癒のために引っ越しを勧めていたようであります。そういう勧告をするということは、私の見解では、彼女の問題に対してその医師がお手上げになっていたのだと思います。
さて、環境を変えること、あるいはそれによって新しい経験をすることは常に望ましい影響を人に及ぼすとは限らないのであります。
話を分かりやすくするためにいささか極端な表現を用いることをお許し願いたいのでありますが、まず、健常者と病者というふうに人を二分することにします。もちろん、人はそれぞれ違いがあるので二分するなどということはできないのでありますが、便宜上、そうしたいと思います。
次に、人があることを体験した時、その体験を治癒につなげることもあれば、悪化につなげてしまうこともあります。治癒というのは成長とか成熟といったことであり、悪化とは停滞とか退行などを指しています。私たちは体験をし、その経験を引き受け、自分のものにしていくのでありますが、治癒の方向に結びつくか悪化の方向に結びつくか、この二つの方向性があると仮定しましょう。言うまでもなく、人の体験もこのように二分することはできないのでありますが、便宜上、そう仮定することにします。
経験を受け止め、処理する方向性が二つあるということは、同じような体験をしても、まったく違った方向に人を導いてしまうことがあるということになります。。
例えば、誰かから深く愛されたという経験をしたとしましょう。これは非常に好ましい経験であり、当人も愛されたという実感を得て、満ち足りた経験となったとしましょう。ある人は、愛されることによって、愛で報いようと欲するかもしれませんし、相手に対しての尊敬や責任を引き受けようと決意するかもしれません。一方で、愛されることによって、依存心がドッと噴き出して、相手にベッタリするという人もあるでしょう。同じような体験をしても、成長につなげる人と悪化に導いてしまう人とがいるということであります。
心理的に健常な人は、何かを体験して、それを比較的成長につなげることのできる人であると言うことができると私は考えています。常にそうできるとは限らないものではありますが、概ね、経験を成長や自己治癒につなげていくことができる人であると私は考えています。
心理的に病的な人は、体験を建設的かつ成長に向けて活用できない人であると私は考えています。同じように常にそうなるというわけではないとしても、この人たちは経験を悪化の方向に導いてしまうものであります。だから、日々の経験の中で精神は慢性的に病んでいくのであります。一つ一つの経験が、それ自体は小さな経験であったとしても、病む人にとってはそれを治癒や成熟につなげる道から疎外されているのであります。だからこの人たちは病者となってしまうのであります。この人たちにあっては、治療や援助の経験でさえ悪化の方向に処理されてしまうことも珍しくないのであります。
なぜ治癒や成熟の方向につなげることができないのかということですが、これは技術的な問題ではなく、その人の在り方であるとか心の様式、あるいはパーソナリティに関わる領域の問題であります。端的に言えば、いくら環境を変えても、心が変わらないのであれば、同じことを繰り返すか又は悪化するかの可能性が高くなるわけであります。私はそのように考えていますので、<A>で述べたよな回答になるわけであります。
この人たちが環境を変えて、新生活を始めたとしても、上手く行くのは最初のうちだけであります。それはその新生活の新奇性によるものでしょう。新しい環境が新鮮に映るのでしょう。それで世界が変わったように見えるのかもしれません。ただ、それでその人自身が変わったわけではないのであります。
さて、どのような人が質問文のようなことを言うのでしょうか。私の受けている印象では、自分自身に取り組めない人が多いように感じています。環境因説の支持というのは、自分の抱えている諸問題を外在化している傾向を認めることができるのです。それが自分の中にあるものであることが見えない、あるいは自分自身に目を向けることのできないことの表れではないかと思う次第であります。
また、上記と関連することでもありますが、問題を簡略化したい気持の表れであるかもしれません。簡略化を願うのは、それが手に負えないと感じられているのでしょうか、あまりそれを直視したくない気持があるのかもしれません。複雑さや曖昧さに耐えられないといった感じの人もおられるかもしれません。
さらに、外的な環境や行為を変えれば上手く行くというのは、自分はそのままでいいという心情が背景としてあると仮定できるので、そのように仮定すればこれは「思い上がり」の心理ということになるでしょう。ビンスワンガーのいう「失敗した現存在」の在り方で生きている人であると言えるかもしれません。
これこれのことをすると治ると信じるのは結構なのですが、私の経験した範囲では、その根拠となっているところものを語る人はほとんどいないのであります。なぜそう思うのかと尋ねても確かな返答が得られないことが多く、彼らは気分的・感情的にそう信じているという印象を受けるのであります。
そう信じていても実際に行動に移すか移さないかは人によるものであります。躁的であったり衝動的な傾向の強い人は突発的に行動に移すこともあります。こういう行動化は周囲の人も臨床家も歯止めが効かないものであり、当人はしばしば独断で、誰にも打ち明けずに決行したりすることもあります。例えば、離婚した方が自分たちは上手く行くと信じた夫が、ある日いきなり妻と離縁するのであります。妻の人生設計などお構いなしに一方的に、有無を言わさず離婚してしまうのです。一見すると夫の自己中心さが目立つのですが、この夫はむしろ躁病的なのであります。彼のこれまでの人生上の決断はほとんどすべてそのような形でなされてきたのでした。結果的に、どれも上手く行っていないようでありますが、彼はそれを繰り返すのです。この夫の存在様式は過去経験から分断されていたようであります。つまり自己を非連続的に生きているようなところがあり、過去経験から学ぶことが困難であったようでした。
一部の人たちはかなり悩んだ末に決行するのであります。何人かこういう人を私は思い出すこともできるのですが、新しい生活を始めても、決して彼らが思い描いていたほど順風満帆ではないのであります。むしろその逆であります。以前の生活から持ち越してきているものに加えて、新生活からかかる負荷が課せられてしまうので、当人たちはさらに苦しい状況に置かれてしまうことも稀ではないのであります。
そして、あることをすれば治るという信念を抱いていながらも、最後までそれを決行しない人たちもいます。その中には、その考えが根拠もないことに気づく人もあれば、そういう考え方を捨ててしまう人もあります。信念が別のものに変わっていく人もあり、かつての信念が愚かしいものに見えてくる人もおられたのでした。私はそれでよかったと思っています。
「○○すれば治る」と信じるのは構いません。それは個人の思想であります。それにその思想にすがりつかなければいられないという人もあるでしょうし、その人からそれを奪うつもりも私にはありません。
ただ、それは現実に実行しない方がいいということであります。できればその思想は捨てることができれば、それに越したことはないと私は考えています。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)