<#016-32>「○○歳になったら治るんです」
<Q>
これは質問というわけではないのですが、「この病気は○○歳になったら治るんです」とか、「若い人が罹る病気で、中年になったら治るんです」といった内容の発言であります。この種の発言をされたクライアントが過去に3人ほどいました。
<状況と背景>
私の経験範囲においては、クライアントが自分の症状とか問題をどう捉えているかを述べる際に発せられる言葉であります。
<A>
私の回答は「決してそんなことはありません」というものです。
むしろ、心の病などは年月を経るほど進行するものであります。だから放置してはいけないのであります。
もし、そのようなこと、つまりこの病気は何歳になったら治るとか、年を経ると治るとか、そういうことを言う専門家がいるとすれば、その専門家は信用しないでほしいと思います。
<補足と説明>
「この病気は○○歳になったら治るんです」という発言をしたのは、中年の域に達していた女性クライアントでした。若いころからある種の精神症状に悩まされていた彼女はその年齢まであと少しというところでした。彼女はその説にしがみついていて、それだけが唯一の希望であるかのようでした。
誰がそういう説を唱えているのか分かりませんでした。彼女はどこかでそういうのを読んだのかもしれないし、彼女が誤まって解釈しているのかもしれません。それでも彼女は長年その説を信奉していて、その年齢に達するのを心待ちにしていたようでありました。
ところで、この思考はいささか不思議であります。ある年齢に達したら、あたかも設定時間に達したタイマーが自動的に作動するかのように、症状がピタリと無くなると彼女は信じているかのようであります。
あまりクライアント個人のことは控えたいと思うのですが、この女性に関してもう一つだけ述べておくと、彼女には子供が一人ありました。彼女の子供に対しての思考もそのようなものでした。この思考を端的に表現すると「これをすると子供はこうなる」というものでありました。しかも、彼女自身が何かをするのではなく、学校がこれをすると、夫(父親)がこれをすると、子供が(いい意味でも悪い意味でも)こうなるという話が多かったのでした。つまり、彼女の思考には彼女自身が含まれていないのであります。主体性が喪失しているのであります。
加えて、この思考はきわめて「機械的」であります。ある年齢に達したら作動する(タイマーが作動する)、誰かがこれをしたら子供がこうなる(ボタンを押すとこう動く)、その他にも彼女の思考にはこのようなものが結構見られたのでありますが、こうしたメカニカルな思考様式は彼女の人格が貧困化しているところに起因しているように私には思われたのでした。
上記の女性の場合、その思考様式が「病的」な色彩を帯びていました。一方、「この病気は中年になると治る」と信じていた女性クライアントは、それが自分の「読み間違い」であることを後に認めたのでした。若い年代に発症する症状のことを読んで、彼女はそれを若い人だけが罹患する病気であるかのように解釈していたのでした。
この女性は自分の誤解を訂正したのでした。それができるのは彼女の現実吟味が機能しているからであります。「中年になったら(自動的に)治る」という誤った信念を捨てて、彼女は治療とカウンセリングに身を入れるようになったのでした。
心の病というものは年齢とともに進行していくものであります。適切な時期に治療を行うか、よほどの幸運が無い限り、この進行を食い止めることはできないと私は考えています。いくつか例を挙げましょう。
成人した息子が統合失調症と診断され、悲嘆にくれた母親を私は思い出します。彼女にとって息子は自慢の子供でした。あれだけ賢い子であったのに、どうして精神病にならなければならないのか、彼女には理解できないでいました。
子供時代の息子さんが賢かったというのはどういうことでしょうか。母親はその一例として息子さんの並外れた記憶力を挙げました。過去のどの場面のことでも、彼は細部に至るまで記憶しており、それを再生して親や周囲の人を驚かせたものだと彼女は言います。
彼女はそれを子供の賢さと理解していたのですが、果たしてそうでしょうか。
私たちは物事を記憶します。過去の場面を記憶しています。その際に、「図と地」の区別が見られるものであります。つまり、「図」となるものはよく記憶していて、背景となる「地」の部分はあまり覚えていないものであります。これはなぜかというと「注意力」が働くからであります。注意が注がれているものが「図」として記憶に残るわけであり、それ以外は背景を成すのです。そこでは注意の分配がなされていることを表しています(注1)。
この子の記憶力はどうでしょうか。細部まで事細かに記憶しているというのは、この子の記憶はいわば景色をフィルムに焼き付けるような形のものではなかったでしょうか。その時々の場面が、注意が分配されることなく、受動的に脳裏に焼き付いているだけではないでしょうか。
そのように仮定すれば、この子は子供の時から精神病的であったと言えるのではないでしょうか。成人して発症したのではなく、子供時代からすでにあったものが進行して、成人後に顕在化したと考えられるのであります。
また、心の病なんか自力で治せると豪語する夫がいました。この人の妻がクライアントだったのですが、彼女は昔から夫に手を焼いていました。この夫はかなり乱暴な性格の人でしたが、中年を過ぎて徐々に穏やかな性格になっていったそうであります。夫はそれを自力で治したと評しているわけであります。
しかし、妻の話を聞く限りでは、この夫が「治った」とは言い切れないのであります。やはり詳細を記述することは控えるのでありますが、例えば、あれだけ執着していた我が子に対しての無関心さといい、仕事や家庭のイベント(一年に一度家族旅行するというルールがこの家族にはありました)における無感動さといい、若いころに比べると大人しくなった夫でありますが、それは「治った」ためではなく、むしろ人格の貧困化のためであるように私には思われてならないのでした。
彼女は夫に対しては愛情もなく、なんら感情もなくなり(こういうところで似た者夫婦のようにも思えたのでした)、夫のことを「ただお金を稼いでくれるだけの人」と評していました。事実、夫はそのような存在になっていたのでした。夫にとっては、仕事もルーティーンであり、機械的にこなしているようでありました。妻にとっては扱いやすい夫になったのですが、かつてほどのエネルギーが枯渇しているだけであるようでした。
この夫のように、一見すると「治った」ように見える例でも、実際は病理が進行した結果であるかもしれないのであります。
心の問題とか病というものは、放置しておくと進行していくものであり、年齢を経ると自然にかつ自動的に「治る」などという説(があるとすれば)は間違いなのであります。決してそのような言説を信用しないようにしていただきたく思います。
(注1)
私は「注意力」として取り上げましたが、別の表現をすることもできます。例えばゲシュタルト心理学でいうところの「代表の法則」を用いて述べることもできます。何かが図になるということは、それが全体のうちの代表を示しているわけであり、人間の認知にはこの法則が当てはまるのであります。この子は、どうしてそうなのかという理由は分からないけれど、人が普通に所有している法則を有していないということになります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)