<#016-29>「臨床の仕事とはどういうことでしょうか」
<Q>
「臨床の仕事とはどういうものなのですか、それはどういうことなのですか」といったニュアンスの質問であります。
<状況と背景>
こういう質問は、主に、これからカウンセラーを目指すといった人からなされるものであります。臨床心理学を専攻する学生さんであるとか、カウンセラーに転職しようかと考えている社会人さんから、ごくたまにですが、こういう質問をいただくのであります。
<A>
私の回答は以下の通りです。
「そんなの人に訊くな」であります。
<補足と説明>
「臨床」という言葉は多義的で、使う人、聞く人によって様々な意味づけや色付けがなされるものだと私は思います。「心理臨床」などと言うと、その曖昧さははるかに増すのではないかと思います。
そもそも「臨床」なんて言葉は「床に臨む」と表記しているのであります。いわば病人のベッドサイドに臨むということであります。そこで何をするかはベッドサイドに臨む各個人に委ねられていると私は考えています。
従って、何が臨床であるかは、各臨床家がそれぞれ身に着けていく思想であると私は考えています。だから、そういうことは人に訊いても意味がないのであります。少なくとも、それが自分の血肉にならない限り、そのような他人の見解は無意味な知であると私は思うのです。
学生さんは経験が無いので仕方がないのでありますが、現場に出て10年も仕事をすれば自分なりの「臨床の仕事」が見えてくるかと思います。
さて、無意味であるとは分かっていながら、私は自分の考えている臨床を記述しておこうと思います。
仮にあなたが臨床家で、今、一人のクライアントと面接しているとします。そのクライアントは「境界性人格障害」と診断されているとします。このような人は急激に変化することがあります。つまり、それまでにこやかに話していた人が、まるで人が変わったかのように怒り出し、攻撃してくるのであります。もし、熟練した臨床家なら、そこでうろたえたりせずに、その人の怒りに対して解釈を与えていくでしょう。しかし、急に怒りを表現し始めたそのクライアントに対して、あなたは驚いて何もできず、ただうろたえ、何が生じているのかも理解できないまま、面接を終えたとします。
あなたは傷つけられ、うちひしがれ、自分の無力さを痛いほど思い知らされることでしょう。あなたはその人がなぜ急に怒り出したのかを考えてみます。これまでの面接記録を見直したり、録音したテープを聴きなおしたりするでしょう。いろんな文献や事例を紐解いたりするでしょう。スーパーバイザーと一緒に検討するでしょう。事例検討会で発表して、他の臨床家の見解を伺ってみたりするでしょう。私は断言するのでありますが、この時、あなたは立派に臨床の仕事をされているのであります。臨床の仕事とはそういうものだと私は捉えております。
私はフロイトを尊敬しているのであります。私にとっては、フロイトが正しいとか間違っているとかいうのはそれほど重要なことではないのであります。
フロイトやその他の臨床家たちのしていることを図式的に見てみると、次のようになると思います。
(A)まず、その臨床家が直面した現象があります。
(B)その現象に対して、臨床家が考察を重ねていきます。
(C)考察の結果、ある種の結論を導き出し、一つの公式化を図ります。
(D)その公式の実証性を検討する。
こういう流れを見ることができると思います。フロイトが間違っているとか正しいとかいう議論は、(C)で公式化された公式に対しての議論であります。私がフロイトから学びたいのは、(C)の部分ではなく、(B)の部分なのであります。フロイトはその部分を書き残してくれていることが多く、そこに臨床の神髄を見る思いがします。
そして、この(B)における作業こそ、臨床の仕事であると私は理解しているのであります。そして、(C)や(D)というのは学者の仕事であると思います。
心理臨床の仕事というのは、いかにしてその人を理解していくかということに尽きるかと思います。クライアントのことで思い悩み、あるいはクライアントから傷つけられても尚、そのクライアントを理解しようという姿勢にあるのだと、私は考えております。その人を良くしてあげるとか、治してあげるとかいうのは、二次的な目標であって、臨床の本来のものではないと私は捉えております。
臨床の仕事というものは、ドラマに描かれているようなドラマティックなことなんてほとんど起きないものであります。地味な仕事を地道に続けていくことなのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)