<#016-21>「何によって治るのですか」 

 

<Q> 

 人は「何によって治るのですか」 

 何が「治癒」に効果的なのかという意味の質問であります。「何が治すのか」「何で治るのか」といった類の質問であります。 

 

<状況と背景> 

 この質問は頻繁に受けるものではないのですが、少数の人から類似の質問を受けたことがあります。私はある一人のクライアントを思い浮かべているのですが、その人は調べれば調べるほど何によって治るのかが不鮮明になったといいます。○○療法が効くとか、××セラピーが効果的であるとか、さまざまな情報にさらされて一体何を信じていいか分からないと、たいへん困惑されていたのでした。 

 

<A> 

 私の回答は単純です。 

 「そんなの分かりません」です。 

 

<補足と説明> 

 今、仮にX氏という人がいるとしましょう。この人は精神的な病の診断をもらってきたところです。もちろん架空のお話です。 

 X氏は、これを機会に自分の病気を治そうと決意します。彼は治療プログラムに取り組み、服薬も欠かさず続けました。医師の治療だけでなく、カウンセリングによる心理療法にも取り組み始めました。 

 他にも彼はよいと思われるものはなんでもやってみようと努めました。 

 まず、彼は食生活を改めようと思いました。バランスのいい食事をこころがけるようになりました。 

 彼は今までよりも仕事に精を出しています。仕事に打ち込むことで迷いを吹っ切ろうとしたのでしょう。また、仕事帰りにジムによって運動をするようにもなりました。加えて、ペットを飼って、飼育するようにもなりました。彼はそうして日常生活のさまざまな局面を変えていったのでした。 

 休日は地域活動や地元の人たちとの付き合いにも参加するようになりました。彼は人付き合いもできるだけしていこうとしたのでした。 

 気休めと思いつつも、少しでも治癒が訪れるようにと、健康運を高めるパワーストーンを身に着けて暮らすようになりました。 

 そうこうしているうちに、数か月後には状態が改善していきました。つまり、彼は「治った」とみなされたのでした。 

 

 既述の通り、これはまったく架空のお話です。そういうものとして読んでいただきたく思います。 

 さて、X氏は何によって治ったのでしょう。 

 医師は治療プログラムが功を奏したと言うでしょうし、薬理学者は薬が効いたと言うことでしょう。カウンセラーは心理療法が効果があったということでしょう。 

 食品栄養学者ならバランスのとれた食事が心身に影響して、それが効果的だったということでしょう。 

 運動生理学者であれば、ジムに通って体を鍛えたことが良かったのだということでしょう。 

 また、アニマルセラピストであれば、彼がペットを飼育するようになったことが治癒につながったということでしょう。 

 社会学者であれば、地域活動に参加したりなど、そういう社会参画が精神にとってよかったのだろうというかもしれません。 

 さらに、神秘学者であれば、彼が身に着けたパワーストーンの効果によるものだというかもしれません。 

 私はX氏が自分を治そうと決意したその意志が治癒を導いたのだと言うことでしょう。 

 

 案外、専門家のやっていること、言っていることというのはこういうことなのかもしれません。病む場合でも治癒する場合でも、人間はトータルに成し遂げていくものであると私は思うのですが、専門家はそこを細分化して、自分の専門領域に視野を限定してしまうところがあるように私は思うのです。 

 従って、各種の専門家の言っていることは、その専門の一面に関しては正しいものを含んでいるのですが、現実の個人を反映しているとは限らないかもしれないのです。 

 

 では、その症状に効果があるとされているものはすべてやった方がいいのかと問われると、そうではないと私は答えます。 

 これは「治る人-治らない人」のテーマにさしかかるのですが、「治らない人」は単一の治療にすがりつくところがあり、その治療を生活のすべてにする傾向があると私は感じています。「治る人」は治療は治療で取り組みつつも、それは生活の一部として位置づけられていて、治療以外の生活領域でも充実しようとするところが感じられるのであります。 

 ちなみに、一つの治療を生活のすべてにすることがどうして「治らない」になってしまうのかということですが、それは簡単であります。「治った」ら生活がすべて空虚になってしまうからであります。「治った」後の生活が無いからであります。何もなくなるよりも、それを続けた方がマシであるということになれば、この人は決して「治って」はいけないということになるからであります。 

 上記の質問に戻るのですが、その症状に効果があるとされているものはすべてやった方がいいのかというと、結局、それは生活のすべてを治療にしてしまうことにつながりかねないと私は思うので、却って「反治療的」な試みになってしまうのではないかと思います。 

 

 さて、私もクライアントと会い続けていて、その人が良くなっていくのを見ると嬉しいとは思います。もっとも私の言う「良くなる」の意味が一般の人とはズレがあるかもしれないのですが、私から見て、クライアントの改善していく姿を見るのは嬉しいと感じるのです。 

 ただ、どうしてその人が良くなったのか、私は自分でも分かりません。私にも分からないけれど、クライアントが良くなるのであります。もちろん、後から考えて、きっとこれが良かったのだろうとか、あの時のあれが効果的だったのだろうとか、そういうことは言えるのですが、現実のところ、どうだったのかは私にも分からないのであります。おそらくクライアント本人分からないだろうと思います。私には訳がわからなくとも、クライアントが良くなるのであれば、私はそれでいいと考えています。 

 

 人はトータルで良くなっていくものであります。カウンセリングであれ、医療処置であれ、服薬であれ、それらはすべて治癒過程の一要因に過ぎないものであると私は考えています。それ以外の領域のことがらを個人はたくさん有しているものであります。それらもすべて要因として考えることができるのであります。専門家はどうしても自分の専門領域に話を限ってしまうので、それだけで人が「治った」というような錯覚を与えてしまうかもしれません。そこは受け取り手も注意しておく方がいいだろうと私は思います。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

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