<#016ー20>「話して何になるんですか」
<Q>
「話して何になるんですか」、「話し合ってどうなるんですか」等々
ただし、「話しても何にもならない」「話しても意味がない」「話すだけ無駄だ」といった問いは含まないものとします。次に述べるように、アンビバレントな感情が感じられないケースは本項では除外することにします。
<状況と背景>
話をして一体何になるのかという意味合いの問いであります。話し合ったところでどうなるというのですか、などであります。
カウンセリングに対して懐疑的であるけれど、どこか興味を惹かれているところもあるといった、アンビバレントな感情が認められるように私には感じられます。ただ、懐疑的な傾向、カウンセリングへの抵抗感などの感情の方がより強いように思われます。
<A>
話して何になるか、そんなことは考えなくてよい。
<補足と説明>
いささか愛想のない回答でありますが、話すことの効用を述べると、その効用を意識して話すようになる可能性が高くなるからであります。クライアントはその効用を得るという目的のために話すようになるでしょう。そういう人が現れるかもしれないのです。
もし、そのような人が現れるとすれば、その態度は一つの症状であるように私には見えてしまうのであります。どこか自分自身に対して機械的な感じがするのです。自分にこういう効用をもたらすために、自分の行為を決定するといった感じを受けてしまうのであります。自分自身を機械化していると言いますか、自分自身との関わり方が機械的であるように見えてしまうのです。
また、この態度は自己制限的であり、自己縮小の傾向が強く感じられてくるのであります。一つの効用とか目的のために自分の行動を決定するということは、その他の広がりを制限することになるように思われるからであります。その効用や目的以外にその活動から得られるものは無視されてしまうかもしれないとも思うのであります。
従って、話して何になるのかという問いに明確にお答えすることは「反治療的」であると私は考えています。
ところで、一部の人は自分自身を話すことを恐れるのです。自分を話し、自分のことを相手と共有することは、自分自身を失うことに等しい体験となってしまう人たちもいるのであります。自分に属するものを相手と分かち合うことは、自分からそれが奪われるような体験となってしまう人たちであります。
そういう人は自分を話す場を非常に恐れているかもしれません。彼らには話すことが治療になるという考えは信じがたいことのように思われるかもしれません。その行為(話すということ)が自己の喪失をもたらすからであります。その恐怖感と警戒心から、話しをして何になるのかといった問いを発せざるを得なくなるのかもしれません。それでいてどこかカウンセリングに興味を覚えているところもあるので、このような表現になるのであろうと私は思います。
また、そこまで恐怖感が強くなく、警戒心を要さない人であっても、単に話すことが苦手であるとか、抵抗感があるといった人もいることでしょう。それでも自分を話すことに関する恐れはあると私は思うのであります。彼らもまた、自分を表すよりも、自分を隠したいと願う人であります。
そういう人も、場合によっては、話して何になるのか、話さずに済む方法はないのか、などと考えてしまうのかもしれません。
また、この種の問いを発する人たちの中には、「話す」ということを本当に知らないという人も含まれていると私は考えています。この人たちはこれまでも話して何にもならなかったという経験をしているかもしれません。そうではなく、何もならなかった話しかしてこなかった人たちであるかもしれないのです。
カウンセリングにおける「話す」とは、私の考えでは、日常の意味での「話す」というよりも、より「告白」や「告解」のニュアンスが濃いものであります。最初からそのように話せるクライアントは皆無であり、クライアントたちは徐々に「話す」ということを身に着けることの方が多いのであります。もちろん、最後までそれを身に着けることなく終わるクライアントもおられるのですが、カウンセリングが上手くいくと、クライアントは自己表現が以前よりも上手になっているのであります。
従って、「話して何になるのか」という問いは正しいのであります。質問者がそれを体験したことがない、あるいは「話す」ことが身についていないから理解できないだけであるのかもしれません。
また、何を話すのかということも重要な観点であると私は思います。
私があることについて話すとしましょう。話すことによって、私はそれについての意識性を高めていきます。話せば話すほど、それをより意識化することになります。それをより意識化するほど、私の中ではそれに問題意識が帯びるようになるでしょう。私はそれを真剣に考えるようになるでしょう。私はそれに取り組むでしょう。それが私に意識化されている程度に応じて、私はそれに取り組むことになり、どこかに行く着くことでしょう。そこは一つの到達点に過ぎず、過程の一部でしかないものであります。というのは、見えるもの、意識化されるものが多くなるほど、他の部分が見えてくるからであります。視野が広くなるほど、より遠方のものまでが視界に入ってくることになるからであります。多くのことが意識野に入ってきて、一つの到達点は次の過程の開始点となるのであります。
簡潔に述べると、話すことは意識化することであり、それは過程の始まりであるということであります。つまり、話すことの効用は、それがどこかにたどり着くことではなく、新たに何かが開始されるというところにあるわけであります。従って、「話して何になるか」というゴールの問題ではないのであります。
話すことが意識化することにつながるということですが、クライアントたちはしばしばそれを表明されるのです。自分の体験したあることを他者に話してみて、そこで初めてそれについてよく分かっていない(意識化されていない)ということに気づかれる方が多いのであります。漠然と分かっているつもりになっていただけで、明確に意識化されてはいなかったわけであります。
次に、そうした意識化がなされると、クライアントはそれが「より見えるようになった」という体験をされるのであります。その経験の輪郭が明確になってきたり、より細部のものが見えるようになったりするわけであります。
それが意識化されると、今度は、それのどこに「問題点」があったのかといったことも見えてくる、あるいは、そのことがより考えやすくなるのであります。また、クライアントが意識化できている程度に応じて、クライアントはそれを話題にし、話し合いの俎上に上げてくるのであります。
つまり、クライアントの話が豊富になってくるのであります。話して何になるかではなく、話すほど次の話が生まれてくるのであります。話すことは自分を豊かにする体験となるものであると私は考えています。
さて、以上を踏まえると、自分を話すということは、自分を意識化することであり、自分自身に対しての意識性を高めることであります。
他者のことを話す人も多いのですが、この場合、その他者をより意識化することになり、その他者に対しての意識性を高めることになるのです。失敗するクライアントたちはまずこれをするのであります。
他者が話題になっても、それがその人にどう関係しているのか、主眼はクライアント本人にあるということが大事であります。他者の言動を話すのではなく、それを自分がどう体験し、どのように評価し、自分の何が損なわれ、何が得られたのか、そして、その体験をした自分をどう思うのか、その体験をした自分がどうなっていきたいのか等々、他者のことが話されたとしても、クライアントは自分自身を話すことになるのです。「クライアント中心」というのは、そういう意味であると私は考えています。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)