<#015-21>S氏3回目面接~解説編(2) 

 

 S氏は問題発生場面を持ってきました。S氏がそのメモを読み上げ、私が筆記します。続いて、私の筆記を追いながら、さらに抜け落ちたところなどを補足していきます。こうして一連の展開をもつ場面が再構成されていきます。 

 S氏が持ち込んだ場面は、単純なものであり、双方のやり取りもそれほどなく、短時間のものでありました。面接編では簡略化して掲載しております。ここでそれを再掲載して、この場面に関しての説明をしておきたいと思います。 

 

 ①夜、S氏が居間にてくつろいでいる。 

 ②いきなり大きな音が鳴ってドアが開く。 

 ③S氏が驚いて見ると、妻がものすごい権幕で入ってきた。 

 ④妻は無言で冷蔵庫の方へ行き、飲み物を取り出して、そのまま無言のまま出ていこうとする。 

 ⑤S氏は妻に手をかけて、「お前、今、ドアを蹴っただろう」と問い詰める。 

 ⑥妻はそれに答えず、S氏の手を払いのけて出ていこうとする。 

 ⑦S氏はさらに「俺が訊いてるんや、答えろ」と詰め寄る。 

 ⑧妻はさらにS氏を無視しようとする。 

 ⑨S氏、さらに「待て!」と妻を遮る。 

 ⑩妻、「ほら、あなたはそうやって怒る。放っておいてよ」と言って、居間から出ていく。 

 ⑪S氏、それ以上は追及しなかった。 

 

 この一連の流れでありますが、最初にS氏が報告した時、彼は②のところから始めたのです。いきなり大きな音がしてドアが開いたというところから始めたのでした。①は後からの補足であります。 

 このことはそれほど珍しいことではなくて、クライアントは問題が起きたところから話を始めることが多いのであります。それ以前のことは等閑に付されていることがけっこうあるわけであります。 

 ①の情報がどうして必要かということですが、問題発生に先立って、クライアントがどういう心的状態であったかを知りたいからであります。面接編でもこのことは述べています。 

 では、どうして心的状態を知りたいのかと言いますと、問題発生場面において、その感情がどちらに属していたものであるかを明確にしたいからであります。DVに限らず、人間関係の問題においては、お互いの感情が錯綜しあい、それがどちらに属する感情であるかが不明瞭になるのです。そこで、その感情が当人に属していたのか相手に属していたのか分ける必要が生まれるのであります。 

 ①では、S氏は居間でくつろいでいます。穏やかで、落ち着いた感情であったそうです。これが問題発生に先立ってS氏が体験していた感情であるということになります。 

 ②では大きな音がして、S氏を驚愕させる(③)のです。彼のくつろぎが遮断されたわけであり、彼にとっては穏やかで落ち着いた感情状態が害される体験となったでしょう。 

 妻がものすごい剣幕で入ってきて、無言のまま冷蔵庫の方に行き、飲み物を取って出ていこうとします。妻はS氏を無視するわけであります。S氏は三度にわたり妻に関わります(⑤⑦⑨)。妻は応じず、最後に「ほら、あなたはそうやって怒る。放っておいてよ」とだけ彼に反応します。 

 この一連の流れに関しては後の解説で取り上げていくことにします。ここでは妻の発言、この問題発生場面での唯一の発言(⑩)について少しだけ私の思うところのものを述べようと思います。 

 

 私は妻のこの発言を投影同一視(ないしはそれに類似の現象)として理解しました。投影同一視というのは、自分が内面に抱えている不愉快なものを相手に属するものとして(投影して)、さらに相手がその不愉快なものを実現し(つまりそれに同一視し)、自身もその不愉快な状態を実現するといった現象であります。精神分析では原始的な防衛機制とされ、幼児や児童にはよく見られるものであります。 

 典型的なやりとりを挙げましょう。 

 A「(怒って)なに怒っているの」 

 B「怒ってないよ」 

 A「いや、怒ってるでしょう」 

 B「ほんと、怒ってないって」 

 A「うそ、本当は怒っているでしょ」 

 B「(少しイライラしてきて)しつこいなあ、怒ってなんかいないって」 

 A「いいえ、絶対怒っている」 

 B「(本当に怒って)怒ってないっていってるだろ」 

 A「(怒って)ほら、やっぱり怒ってるじゃないの」 

 このやり取りでは、Aが不愉快な感情(怒り)を最初に体験しているのだけれど、Aは自分がそれを体験していることを否認していることになります。つまり、自分がそれを抱えているということはAにとって耐えがたいことであるわけです。 

 Aは自分がその不愉快な感情を抱えることができず、Bにそれを心的に投影しています。本当はAがそれを抱えているのだけれど、Bがそれを抱えているということになるわけであります。Aの体験としては、Bがそれを抱えているという部分だけが認識されていることになるでしょう。 

 Bはそれを否定するのでありますが、Aにはそうは見えないのであります。Aは自分が不愉快なものを相手に投影していること、つまり自分に属しているものを相手に見出しているということに気づいていないのであります。従って、Aからすると、Bがいくら否定しようと怒っていないという証拠を提示しようと、Bが怒っているというように見えてしまうわけであり、Aにとってはそれが事実であるように体験されているのであります。 

 そして、BはAが投影してくるものに自ら一致させてしまうことになります。つまり、Bが本当に怒ってしまうわけであります。それに反応してAも怒りを体験するのでありますが、Aからすれば、Bが先に怒っていたので自分はそれに反応して怒ったのだということになるでしょう。これによって、Aは自分の不愉快な感情を正当化できることになります。本当は自分が怒っていた(これをAは受け入れ、耐えることができない)のだけれど、Bが怒ったのだから、それに反応して私が怒るのは当然のことだ(Aはここでそれを受け入れることができる)と正当化できるわけであります。 

 では、Bにとってはどういう体験となるでしょうか。Bは自分には属していないものを相手から一方的に付与された感じになるでしょう。つまり、最後には怒ってしまったけれど、自分が何に対して怒ったのかよく分からないとか、どうしてこうなったのか理解できないとか、そういう混乱が生じることもあるでしょう。何か不愉快なモヤモヤした感じが残ることもあることでしょう。 

 もし、Bが心的にしっかりしていない人である場合、自分が先に怒っていたと信じることもあると私は思います。AはBが先に怒っていたと主張し、実際にそうであったとBは信じ込んでしまうわけであります。そう信じ込んでしまうのは、その時のBが混乱していて、何が起きたのかよく理解できないという要因もあるでしょう。自分の中で混乱が生じているので、Aの見解に一致させてしまうのでしょう。つまり、Aの見解が正しいということにすれば、少なくとも自分の体験している混乱が整理されることになるわけであります。Aは私が先に怒っていたというけれど、Aの方が先に怒っていたように思う、どっちが怒っていたのか分からないけど、確かに自分も怒った、Aの言うように私も怒った、でもAの言うことは腑に落ちないし、自分が体験したこととはズレがある、等々。Bがこの内的混乱に耐えられないということであれば、Aの述べているところのものを受け入れるようになるでしょう。少なくとも、それによって自分の内的混乱の継続が回避できるからであります。 

 

 S氏に戻りましょう。 

 この一連の流れでは、妻の方が先に不機嫌であり、おそらくイライラしていたでしょう。妻はS氏を無視します。S氏の方にもイライラが発生してきます。そして、S氏がアクションを起こしてしまうわけでありますが、妻はS氏の方が怒っていると言うわけであります。でも、これは事実でもあるわけです。確かにこの時にはS氏も怒りに駆られていたでしょう。一部では事実でもあるがために、S氏は妻の言うことを受け入れざるを得ないという側面があるのです。しかし、S氏からすればこれは納得がいかないでしょう。妻の言うことは正しいと同時に正しくなく、自分が怒ったことを認めると同時に認めることができず、怒りは事実であると同時に事実ではなく、こうした混乱がS氏の方では生まれるでしょう。私はそのように思うので、S氏が持ち込んだこの問題発生場面は、決して「大したことではない」で済ませられるようなものではなく、相当苦しい体験であっただろうと思うのであります。 

 

文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

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