<#014-17>不労所得の魅力
(不労所得の魅力)
ギャンブルが有する基本思想は「自分のために他人が負けてくれればいい」というものであると私は考えています。その思想がギャンブルの根底にあるわけです。
では、ギャンブルが有する基本的な魅力は何かと言えば、それは「不労所得」にあると思います。
働かずして一攫千金できるなら、これほど魅力的な話もないでしょう。それに、私たちは、たとえギャンブルをしない人であっても、それに魅力を覚えることもあるのではないでしょうか。「働かずして金持ちになれたらいいなあ」などと思ったことがないという人はいないのではないか、誰でも一度くらいはそんなことを考えたことがあるものではないかと私は考えています。
恥ずかしながら、私もそういうものを夢見てしまうことがあります。なんらかの幸運が舞い込んで大金を手にするなどという、バカバカしい妄想を描いてしまうこともあります。私の場合、経済的に厳しい時ほど、そういうものを夢想してしまうようです。ただ、不幸なことに私にはそういう幸運は訪れず、幸運なことにそういう夢想から私はさっさと抜け出すのです。少しばかり夢想の世界を楽しんでから、そんなことはあり得ないと、私は現実に帰るのです。
(所得と遊興)
さて、本項で私が述べることは極めて単純なものであります。
私たちには不労所得に憧れる気持ちがあります(そう仮定しておきます)。これが現実には起こり得ないことを知っているか、それとも、これが現実に起きると信じていたり、過去に現実に経験したか、その違いを述べようとしています。
非ギャンブル依存者にとって、ギャンブルは遊興に過ぎず、所得は別の手段を有しています。ギャンブル依存者にとっては、多かれ少なかれ、ギャンブルが所得の手段になっている例が多いように思います。彼らにとって、ギャンブルはもはや遊興の域にはないのです。上記の違いはその点に行き着くと私は思います。
通常、私たちは労働によって所得を得ます。ギャンブルが所得の手段になっているわけではありません。もし、ギャンブルが所得の手段になっているとすれば、その人には労働に関する問題があるということを示しているのです。ちなみに、労働に関する問題はギャンブル依存者にとっては大きなテーマでありますので、繰り返し取り上げることになるでしょう。
(労働と所得の解離)
ギャンブルはあくまでも遊興なのです。本来、それはギャンブル依存者でも同じであるはずなのです。
ギャンブルを遊興などと言うのはけしからんとお怒りになる方もいらっしゃることでしょう。ギャンブルに勝つために、日夜研究をし、失敗を繰り返し、たゆまぬ努力をしているのに、これを遊興とはなんという言い草だと、お叱りを受けてしまうかもしれません。
百歩譲って、ギャンブル依存者は、ギャンブルに対して、それだけの努力をしているということは認めましょう。でも、やはり、それは労働ではないのです。
つまり、その行為は何らかの生産にも、何らかのサービスにも携わっていないのです。労働と呼べる種類の活動ではないわけです。ゲームをクリアするために、裏技を身につけたり、裏アイテムを探し続けるのと同じ種類の活動であると私は考えています。つまり、その遊興をさらに楽しむための活動に過ぎないのです。
ギャンブルが所得の手段となっているとしても、それはやはり遊興であって、労働とは異なるのです。ギャンブル依存者にあっては、労働と所得とがそれだけ隔離されていると言えるのです。そしてギャンブルにおける遊興という観念はまったくと言っていいほど消失している例が多いように私は感じています。ギャンブル依存者を見ていると、私にはそのように思われてくるのです。
(思い上がり)
次に、不労所得を夢見ることは、それは自分が特別な人間であることを夢見ることに等しいのです。普通なら労働と引き換えに所得があるところのものを、労働なしで所得が得られるのであれば、それはよほど特別な人間でなければ不可能であるからです。
不労所得を実現できると信じること、あるいは「ラクして金儲けができる」と信じること、それらの信念の裏には、何か「自分は特別である」という思い上がりのような心理があるのだと私は思います。これもまた一種の「利己主義」であると思います。
一部のギャンブル依存者はこれを実現します。ある意味で特別な人間になるのです。ただし、皮肉なことに、特別に普通以下の人間になることでこれを実現してしまうこともあるのです。
ある人は(私はこの人と直接お会いしたわけではありませんが)、ギャンブルのために仕事も家族も財産もすべてを失いました。彼はもはやギャンブルをできる身分ではありませんでした。現在、彼の生活はすべて生活保護によって賄われているのでした。ある意味で、それも悲惨な形で、彼は不労所得を実現させたことになるのです。
(反復・一時的欲求と継続欲求)
続いて、欲求という観点からも見てみましょう。
所得の欲求というのは不断に継続していく種類の欲求であると捉えることができます。つまり、食欲のように、一度満たされると次に空腹になるまでは生じないという欲求とは種類が異なるのです。食欲のような欲求は反復され、循環されることはあっても、ずっと継続するというものではないのです。満腹すると、一応、その欲求は治まるのです。
人間の欲求には、そのような反復される欲求と、持続的で、不断に継続する欲求とがあると私は考えています。
不断に継続する欲求とは、満たされても次の瞬間にはその欲求が生まれているという経験を指しています。収入並びにそれを得ることに関する活動と、消費することとが同時に進行するので、所得の欲求は継続的になると私は考えています。収入を得ても、生活をしていると常に支出が生じるので、さらに次なる収入を求めなければならなくなるのです。満たされた矢先にさらなる欲求が生まれるわけです。
このように不断に持続し、継続する欲求には、他に、(一部の人たちにとっての)愛情や承認の欲求を挙げることができるかもしれません。承認欲求(そんなものがあるとは私は思わないのですが)を過度に求める人は、承認を得て満足している矢先に、その承認が過去のものになって(現在性を失ってい)いくので、継続して求ざるを得ないのだと私は考えています。
継続する欲求と反復する欲求、その他に一時的な欲求というものもあるでしょう。自分に危機が降りかかった時に自分を守りたいという自己保全の欲求などはこれに含まれることでしょう。そういう危機に直面しなければ発動しない欲求であり、その危機を通過すれば、その欲求は影を潜めることになります。
さて、ここから遊興ということに入るのですが、遊興はどの欲求に基づく行為でしょうか。基本的にはそれぞれの欲求から遊興が生まれることがあるでしょう。しかし、大半は反復的な欲求か一時的な欲求ではないかと私は思います。
例えば、仕事が忙しく、ストレスが溜まり、パーッと遊びたいという欲求が生まれます。それを実行すると、次にその状態に陥るまで、その欲求は現れないことでしょう(つまり反復的)。あるいは、限界が感じられているので気分転換に遊びたいということであれば、この人が限界を通過してしまう(または限界ラインから離れる)とこの欲求は消失することでしょう(つまり一時的)。私はそのように考えています。
以上を踏まえると、次のことが確認できます。通常、所得は継続欲求に基づき、遊興は反復・一時的欲求に基づいています。このように考えると、所得と遊興とは別種の欲求に基づいていることになります。ギャンブル依存者では、ギャンブルが所得の手段となっているために、これが同一の欲求に基づいてしまうのです。本当なら反復的・一時的欲求であったギャンブルを継続欲求に従属させなければならなくなるわけです。
従って、彼らのギャンブルは、反復的・一時的な欲求を満たしているという感じではなく、継続的に派生する欲求の充足に追われているという印象を私は受けるのであります。
(貪欲)
依存症者においては、依存対象への欲求が高まるのですが、それを満たすと同時に欲求不満が生み出されているの(つまり満足は生まれないか、持続しない)です。私のアルコール依存の経験に基づけば、そのように言えるのです。欲求満足の状態が維持されないのです。だから継続的にならざるを得ないわけであります。
所得に関して言うなら、欲求満足の状態が維持されなければ(つまり欲求不満になればなるほど)、それだけ不労所得の魅力が増してしまうかもしれません。所得を得て、生活ができ、それで満足できないようであれば、さらに求めてしまうことになるでしょう(つまり、常に足りないとか、もっと欲しいという感情に襲われること)。彼らはそれをギャンブルで達成しようとしてしまうのではないかと私は察しています。ある意味では彼らは貪欲であるわけです。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)