#014-12>「賭ける」について(2) 

 

(逃避的選択) 

 非現実的で、実現不可能な選択肢は、選択肢というよりも、その人の願望であることが多いと私は思います。 

 一方、実現不可能ではないけど、意味のない選択肢もあります。例えば、三叉路に立たされていて、右か左かを選択せず、この場で眠って過ごして、後で通りかかった人に聞けばいいといった選択(とは言えないのですが)も可能であります。 

 この選択肢は、実現可能であり、尚且つ、非現実的でもありませんが、いささか逃避的な選択であると考えられるのです。この場合では、他人任せという選択肢になるでしょうか。 

 逃避的な選択肢は、人生上、時には必要であるのかもしれませんが、問題もあると私は思います。この人はやはり主体を放棄しているということになるでしょう。そして、その結果の責任はそれに関与した他者に転嫁することが容易であります。 

 この人は、自分で選択(この場で寝て過ごすこと)して決断(通りかかった他者に訊くことに決めた)したと錯覚するかもしれませんが、本当は選択も決断もしていないのです。むしろ、選択も決断も回避しているのです。ギャンブル依存者の中にはこの種の選択をする人もあるように私には思われるのです。これもまたギャンブル依存者が賭けることができないことを表しているように私には思われてくるのです。 

 

(思考と主体性) 

 さて、少し脱線もしましたが、再び論を進めましょう。私たちが迷う場面で、何かを選択し、決断する時、そこに「賭け」が生まれます。 

 ギャンブル者もそれをしていると言うかもしれません。例えば、もう少し粘れば「当たり」が来るのではないかと迷い、そのまま粘ることを選択し、そう決断しているのだから、同じように「賭け」をしていることになるではないかと反論されるかもしれません。 

 それは、しかし、迷いと選択・決断との間にある過程が異なるのです。 

 三叉路に立たされた私は迷うのですが、単に迷っているだけではありません。どちらが正しい道であるかを考えたり、あるいは、かつて右に進んだ人がどうなったか、左に進んだ人はいなかったかなどと調べたりするでしょうし、かつて自分が迷った時にはどういうことが役立っただろうかなどと自分自身を振り返ったりするでしょう。私は迷うと同時に、考え、調べ、振り返ったりするわけです。つまり、ここでは「悩む」という過程が生まれているわけであります。この結果、私は左へと「賭ける」ことになったのです。 

 私は私に迷いをもたらすこの状況に対して、考えたり、調べたり、振り返ったりをしているわけですが、これは迷いに対して主体的に関わっていることになるのです。ここで私の中では一つの主体的な心的活動が生まれていることになるのです。そうして、私の主体性によって「賭け」が生み出されているのです。 

 しかし、ここで私は直感や勘に頼ることもできれば、運に身を任せることもできます。右か左かを直感で決めるとか、運任せで進んでみるとかもできます。私がそういうことを選択する時、私は迷いに対して非主体的であり、ある意味では自己放棄をしていることになります。つまり、賭けの主体が私にではなく、運やツキ、勘にあることになるからです。従って、ここには何一つとして主体的な心的活動と呼べるものがないのです。何かが生み出されたわけでもないのです。運とかツキに頼るというのは、むしろ「賭け」を放棄しているに等しいと私は考えています。 

 上述の「もう少し粘れば『当たり』が来るのでは」と迷う例では、その決断は勘以外の何物でもないと私は思います。考え、調べ、振り返った上での決断ではないはずです。「悩む」という段階が欠落しているように私には見えるのです。もし、「悩んだ」末の決断であれば、彼はそこで粘らない方を選択するはずです。彼はもう少し粘ると「当たり」が来るという勘(というか幻想)に支配されているだけであり、本当は何一つ選択も決断もしていないのです。 

 「賭け」とは、最初に迷いがあり、その迷いに対して主体的な心的活動を経て、現実的な選択肢から一つを決断することであります。「賭け」とは、本来、創造的行為なのであります。 

 一つだけ追記しておくと、自分で考え、調べ、振り返った末に下した決断は、その結果がどうであれ、すべて自己責任になるのです。勘とか、直感、運、ツキなどに委ねた決断は、いくらでも責任転嫁できるのです。その意味で、これは上述の「逃避的選択」と同じであると私は考えています 

 

(配当は将来の自分に関する何かであること) 

 さて、私は三叉路に立たされ、右へ行くか左へ行くかで迷いが生じ、私なりに考えて、左を選択し、左へ進むことを決断します。ここには一つの賭けがなされています。 

 左を選択したことは、正しかったかもしれませんし、間違っていたかもしれません。同じ目的地へ着いたとしても、右に進むよりも大回りしてしまったかもしれませんし、逆に右の道よりも近道であったかもしれません。どういう結果であれ、左の道を選択した結果、私はどこかの地点に行き着くことになります。この結果が賭けの「配当」に該当します。 

 従って、この賭けの配当は将来の自分に関する事柄であるということができます。 

 もし、単純な二分法を採択すれば、結果は「良」か「不良」であります。もし、この賭けが正しければ、結果は望ましいものであり、私の成長をもたらしてくれるかもしれませんし、次の段階に進ませてくれるかもしれません。結果が望ましくないものであれば、私の生は停滞し、もう一度三叉路に戻らなければならなくなるかもしれませんし、破滅が待っているかもしれません。 

 いずれにしても、賭けは将来における自己を配当として設定されているものだと思います。その将来は遠い将来かもしれないし、明日のことであるかもしれません。賭けがなされる現時点において、この賭けの結果は常に未来であり、しばしば不透明であります。 

 現在の賭けにおいて、未来の何かがその賭けの「配当」として獲得することができるのですが、この未来の「配当」は私の中で思い浮かばれているものであります。左へ進めばこういう結果が待っているだろうというものを私は思い浮かべているのです。賭けがなされる時には、やがて訪れるであろう結果、「配当」がすでに個人の念頭にあるわけです。 

 しかし、これは単に思い浮かばれているだけではなく、実現されるもの、ないしは達成しようと努めることのできるものであります。つまり、この結果は、向こうからやってきてくれるものという性質だけではなく、自分からもその結果に向かって進むことができるという性質を有しているのです。この違いは大きいと私は考えるのです。 

 つまり、ギャンブル者がギャンブルの配当を期待する時、それは受身的にそれが訪れるのを待っているだけなのです。「当たり」が来るのを待っているだけなのです。自分からそれに向かって進むことが、ギャンブルという行為においては、できないのです。 

 現実の賭けでは、賭けの結果である配当は、単にやってくるものだけではなく、こちらからも達成の努力ができるものであります。左の道を選択した私は、この結果を早く実現させたくて早歩きをするかもしれません。走ることだってできるでしょう。私はそれを受身的に受け取るだけでなく、積極的に獲得することもできるのです。賭けの結果に対して、決して無力ではないのです。 

 

(賭けの流れ) 

 以上で賭けの流れを素描できたと思います。 

最初に迷いがあり、悩みがあり、葛藤があります。 

その状況に留まることができています。 

これら迷いや葛藤に対して賭けがなされるのです。それは何かを選択し、決断するという行為に付随するものであります。 

その結果として将来の何かが「配当」として得られるのです。 

 結論として、「賭ける」とは自己決断であります。自分の将来に対して、今の自分を賭けることなのです。これが「賭ける」ということであると私は思います。 

 

  尚、このテーマは後のページにおいても取り上げる予定をしております。併せてお読みいただければと思います。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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