<#014-11>「賭ける」について(1)
ギャンブル者は自分では賭け事にのめりこんでいると信じているのですが、現実には彼らほど賭けることのできない人はいないと私は考えています。これに関しては後に再度取り上げる予定をしております。本項では「賭ける」という行為を考察してみたいと思います。
「賭ける」ということは、彼らが信じているようなものとは違うかもしれません。実際、何人かのギャンブル依存クライアントにある問題を出してみると、「賭け」が行われている時点を彼らは間違えるのです。これも後のページで記述する機会があると思います。
先述のように、ここでは「賭ける」とはどういうことであるかに関して、私の見解を述べておくことにします、
(迷い悩む経験)
およそ「賭け」という行為が生まれるためには、その前提条件として、迷ったり、悩むといった状況がなければなりません。それらの経験がなければ「賭け」が生まれないのです。
例えば、今、私は三叉路に直面し、右へ行くべきか左へ行くべきかと迷っているとします。この迷いがなければ、右へ賭けようとか、左に賭けようといった行為は生まれないわけです。
私たちは迷い、葛藤し、どちらにすべきかを決定しなければならない場面に直面します。人生上、あるいは生活上のどんな場面でもそれが起こりうるのです。右か左か、表か裏か、生きるか死ぬか、前進するか後退するか、敵に回すか味方につくか、実行するか延期するか、付き合い続けるか別れるか、貯めるか使うか等、あらゆる場面でそれを経験するのです。そして、こういう場面でのみ「賭け」が生じるのです。
もう一つその前提となる条件を付記しておくと、そこで賭けが生じるためには、私たちはその迷いに留まることができなければならないのです。そこに留まることによって、賭けがなされるのです。もし、そこに留まることができず、逃げ出す人がいるとすれば、その人は賭けることができないわけであります。
私たちは日々迷い、悩むのです。日常の些細な行為でさえ、私たちは迷うのです。そして、こうした迷いが生まれている場面で、私たちは知らず知らずのうちに何らかの「賭け」をしていることがけっこう多いと私は思うのです。
繰り返しますが、どんなに些細な事柄であれ、私たちが迷い、悩み、葛藤する中で、そしてその状況に身を置いていく中で、何かを選択し、決断する時、そこにおいてのみ「賭け」が生じるのです。
(迷わない経験)
一方、そういう迷いや悩みをまったく経験しない場面も私たちの生活には存在します。
一つは習慣であります。例えば、毎朝7時に起きるという習慣が身に付いた人がいるとしましょう。「会社へ遅刻せずに間に合わせるには朝7時に起きなければならない」といったことはこの人にとって一つの習慣になっているのです。かつてはそうではなかったけど、朝7時に起床するという習慣がこの人の中で身についているのです。それが習慣になっているおかげで、いちいち、明日は何時に起きようかなどとこの人は迷うことがないのです。
もし、これで迷うとすれば、この習慣が通用しない場面であります。会社へ行くときはいつも7時に起床するけど、明日の旅行はいつもどおり7時に起きて間に合うだろうか、6時に起きた方がいいのではないだろうか、でも、6時に起きられるだろうか、6時に起きようとすれば何時に寝た方がいいだろうかなどなど、習慣通りにいかないこと、何かイレギュラーなことがあると、改めて迷うことになるのです。
ところで、習慣に関して、次のことは指摘しておく価値があると思います。ある事柄が習慣化するということは、それだけ私たちの心的エネルギーの節約になるということです。習慣になってしまうと、いちいちそれについて迷ったり葛藤したりしなくて済むからです。そして、その分、他の領域にエネルギーを分配できるのです。分かりやすく言えば、習慣化してしまうとラクになるということであります。そんなこと当たり前で自明のことだと思われるかもしれませんが、この観点は重要なのです。ギャンブル依存はギャンブルを習慣化することによって、それに関する葛藤や迷いを経験しなくなるからであります。ただ、習慣だけですべてを説明できるわけではないので、その辺りのことは別の機会に譲りたいと思います。
さて、習慣に続いて、次の二つはお互い重複する部分も多いのでまとめて述べますが、私たちが迷わずに決定する場面には、規則と禁止があります。規則でそう決まっているとか、それをすることは法律で禁じられているといった行為に関しては、私たちは迷ったり悩んだりはしないのです。
信号が赤に変わったとしましょう。ここで止まろうか進もうかと悩む必要はないのです。赤信号で止まることは規則として決まっており、赤信号で直進することは禁じられているのです。規則や禁止が決まっている事柄に関しては、私たちは自分の行動に迷うことはなく、ただそれに従えばいいということになるわけです。
もう一つ、強制とか命令とかいうことも含めることができるかもしれません。それをするということが外部の力によって強制されているということです。規則や禁止とも通じるものがあるのですが、もっと義務とか責任とか、他の要因がここには入ってきます。
以上を踏まえると、私たちの生活場面においては、自ら迷い、悩み、決断した上でなされる行為と、迷いなしで遂行できる行為とがあるということになります。後者の例として習慣、規則、禁止、強制といった場面を取り上げた次第です。前者には賭けが生じるけど、後者では賭けが生じないということがここで私が主張したい点であります。
ここまでのところは何も難しいことはないと思います。迷いや悩みが生まれない場面では「賭け」は一切なされないのです。迷い、悩んだ末に賭けが生じるからです。
尚、上述の二つの行動、迷いが生じる行動と迷いが生じることのない行動に関しては、後でもう一度取り上げることになる重要な区別なので、少し記憶にとどめていただければと思います。少しだけ先取りすると、ギャンブル依存(パチンコ依存)者は、すべてを「迷わないで済む領域」に押し込んでしまうところがあるように私は感じるのです。つまり、すべてを習慣、規則、禁止、強制の下に置いてしまうのです。パチンコをすることも、パチンコを止めることも、「迷わないで済む領域」に追いやってしまうのであります。そういう形にして物事を処理していく傾向が彼らにはあるように私は感じています。従って、ギャンブル依存者の生活には「賭け」が生じる場面が少ないと私は考えています。
(選択と決断)
さて、話を戻しましょう。今、私は三叉路に立たされています。右へ行くべきか、左へ行くべきかを私は決定しなくてはいけません。そこで、私は左を選択し、左へ行くことを決断します。この時、私の「賭け」がなされたのです。
つまり、「賭ける」とは、自分自身に関して、自分を選択し、自分を決断していくことなのです。
ただし、この選択・決断は現実的なものであり、私によって可能なことであるということが条件として付きます。もし、非現実的で実現不可能な選択肢があるとすれば、それは選択肢というよりも、私の願望であります。
例えば、私が右へ行くべきか左へ行くべきかで迷っている時、真ん中に新たに道路を切り開くという選択肢は不可能であります。道を作る道具もなければそれに必要な人員も費用も、さらにはそれに要する時間もないのです。この選択肢は、ただ、「この道が(ここで三叉路にならずに)真っ直ぐに続いてくれていたらよかったのに」という私の願望を表しているに過ぎないのです。
選択肢は常に現実的であり、実現可能なものに限られるのです。その中から、一つを選ぶことを決断するのです。この決断に「賭け」が伴うのです。
分量の関係で次項に譲ることにします。
「賭ける」とは、まず迷いや葛藤、悩みがあり、人はその状態に留まり、そこから何かを選択して、自分自身を決断するところに生まれるものであります。その点をここではポイントとして押さえておきます。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)