<#11-5>キレる配偶者~「言語化」パターン
平常の状態からキレる状態まで一気に飛躍する印象を受ける人たちを「瞬間型」とここでは呼んでいるのですが、この型にはもっぱら言葉でのみキレる人と行動が伴う人とがいるように思うので、下位分類として両者を設定しております。前者を(C)「言語化」パターン、後者を(D)「行動化」パターンと呼ぶことにしましょう。本項では「言語化」パターンを取り上げます。
ある人がキレた時、まず言葉による応酬が見られるのが常であると私は思います。言語的にキレるのであります。それは、具体的には暴言や罵声などのような形で現れます。叱責、非難、その他の攻撃的な言語表現でなされます。当然、口調も穏やかではなく、怒声であり、怒気を含んでいます。
一方、行動で示す人たちもいます。行動とは、殴るとか蹴るといった攻撃的な行動であり、また壊すとか捨てるとかいった行動をも含みます。こちらを「行動化」パターンとしてまとめているのですが、行動化タイプの人は言語化の方もよくやるのであります。行動に言語が伴うこともあれば、言語だけの時もあります。行動化タイプには言語と行動の両方を認めることができるのであります。
明確に区分することは難しいのでありますが、あまり行動に表さないという人も確認できるのであります。殴ったり壊したりといった行動には出ないけれど、もっぱら言葉だけでキレるという感じの人もおられるのであります。そのため、両者を別のパターンとして想定しているのであります。
さて、言語化パターンにおいても、さらに幾分の下位分類ができるように思うのです。私の思うところを綴ることにします。
キレて言語的に攻撃するという場合でも、もしかしたら一人閉じこもってキレる人もあるかもしれませんし、モノに対してのみキレるという人もあるかもしれません。ただ、クライアントからはそういう話を聞かないので、ここでは除外することにします。一応、そういう例もあり得るであろうという程度にとどめておきます。
言語的にキレる場合、(C―1)家族以外の人に対してのみキレるという傾向が強い人と、(C―2)家族に対してのみキレるという傾向の強い人とが認められるように私は感じております。
(C-1)というのは、家族に対してはキレることが全くないしはほとんど無く、この人がキレる場合にはもっぱら家族以外の人であります。家族以外の人というのは、例えば、テレビのコメンテーターに対してであったり、お店の店員さんであったり、セールスマンなどでであります。異論はあるかもしれませんが、ペットに対してのみキレるという人の話も私は聞いたことがあります。
(C―2)はその逆で、家族以外の人に対してはキレることはないのですが、この人がキレるのはもっぱら家族に対してのみであります。パートナーや子供、あるいは親などに対してキレるのであります。ただし、この人がキレても、暴言などを吐くだけで、暴力的な行為が伴わないのであります。このキレる人は、家族からは「外面だけはいい」などと評価されていることもけっこうあるのです。家族にはそのように映るのでありましょう。
そして、その混合の人もあります。つまり、(C―3)家族以外の人に対しても家族に対してもキレる、という人たちであります。本当はこのタイプの人の話を伺うことが私には多いのですが、どちらかというと(C-1)であるとか、(Cー2)の傾向の方が強いようだとか、そのようにしか言えないのであります。
ところで、なぜある人は言語化タイプであり、別の人は言語化と行動化の両方をしてしまうのでしょう。これはキレられる側には決して理解してもらえないのでありますが、二つ(言語化と行動化)のうち、一方だけで収まる人と両方しなければならない人とでは、後者と比較して、前者の方に抑止力が働いているためであると考えることができます。シチュエーションを変えて言うなら、欲しいものが二つあるうちの一方だけでガマンできる人と、どっちも欲しいという人とでは、前者の方が欲求の抑止力が強いということになるわけであります。
従って、言語化タイプの場合、行動化に対しての抑止力を持っているのであり、当人自身も意識していないでしょうが、その抑止力がどこかで働いているものであると私は考えています。
この考えはキレられている側にはとうてい受け入れ難いものであることは私も承知しております。目の前で激しくキレている人の中に抑止力が働いているなんて信じられないと思うことでしょう。抑止に関しては後に考察したいのですが、この抑止は私たちが通常イメージするものとは異なっていて、もっと低い人格水準における抑止であると私は考えています。また、キレている側にとっては、外見上は攻撃しているように見えても、攻撃することそのものが目的ではないことが多いと私は思うので、そういうところからも抑止のような現象が生まれるのかもしれません。
詳細は後に譲るとして、もし、キレている当人の中に何らかの抑止とみなすことのできる力が働いていると仮定すれば、キレる対象の相違はその抑止の働く場所を示しているようにも思われてきます。家族に対してはキレず、家族以外の人に対してもっぱらキレるということであれば、その人は家族に対しては抑止が働き、家族以外の人に対してはその抑止が弱まるというふうに考えることもできそうであります。
抑止が弱まるということは、自我機能の低下並びに人格(意識)水準の低下と関連します。抑止が働くということは、その人の自我機能が働いているということであり、自我が機能しているのであれば、その人はある程度高い人格(意識)水準を保っていると仮定できるわけであります。もし、ある場所においてそれらの機能や水準が低下するということであれば、その人にとってその場所は苦しいものとして体験されていると仮定できるでしょう。従って、家族場面においてはキレず、他者(社会的)場面においてキレるということであれば、その人は家族よりも社会を苦しい場として経験している可能性がありそうに思えるのであります。ただし、そうでない場合も考えられる(むしろ安心して低下させることのできる環境で低下するなど)ので、なにか一つの結論に収束することはできないでしょう。ただ、その人にとってキレる場面とそうでない場面とがあること、キレる対象とそうでない対象があるということは認めることができるように私は思うのです。
本項では、瞬間型の言語化タイプ、言語化パターンについて考察してきました。私たちは次に行動化タイプへと目を転じていきたいと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)