#11-13>キレる配偶者~発達的観点 

 

(発達の観点) 

 配偶者、パートナーがキレるという問題をいくつかの面にわたって考察してきたのですが、私が特に重要と思うところのものはすでに述べてきました。ここからは幾分細部のテーマを個別に取り上げていくことになると思います。 

 最初に取り上げたいのは「発達」という観点であります。これは基本的には乳幼児ほどよくキレるのであり、乳幼児においてはそれが通常であること、その後の発達を経て人はその段階を通過していくものである、という観点であります。従って、そこを十分に通過した人と不十分にしか通過していない人とを分けることが可能になり、後者の人たちがここで取り上げている人たちに該当するということになります。 

 

(キレるは姿を変えていく) 

 まず、乳幼児は頻繁にキレるのであります。私にはそのように見えているのです。というのは、乳幼児のキレるは大人のキレるとは幾分様相が異なるのであります。そのため、養育者にはそれがキレているというふうには評価されないことが多いに過ぎないと私は考えています。 

 ご機嫌だった赤ちゃんが次の瞬間には急にワッと泣き出して、癇癪を起したりする場面があります。子供を育てた経験のある人であればすぐに思い当たることと思います。また、乳幼児に接する機会の多い人であれば、そういう現象を目にすることも多いことと思います。大人からすると、赤ちゃんとはそういうものだとか、普通に見られることだ、などと解釈して、特に気にせず、受け流すということも多いのではないかと私は思います。 

 私は、それは赤ちゃんがキレたのだと評価しています。キレているように見えないのは、そのような目で見ていないということと、大人のキレると違った形で表出されているからであると思うわけであります。 

 赤ちゃんがもう少し大きくなって、児童になっていくと、そのキレるはまた違った形で表出されるようになります。例えば、急に愚図ったり、感情的に言い返したり、暴れたりとかいった形で表出されます。親は困らされるのでありますが、やはりそうした行為は心的には「キレる」と等しいのではないかと私は考えています。 

 その後、青年期に入っていくと、キレるという行為そのものは減っていくことが普通ではないかと私は思うのですが、キレる場合、かなり直接的な行動化、つまり、かなりはっきりした暴力的行為として現れることが増えるのではないかと思うのです。児童が癇癪を起しているのとはまた様相が異なってくると私は考えています。 

 

(人はトータルに発達すること) 

 いずれにしても、乳幼児ほど頻繁にキレる時代はないと私は考えています。人はそこからキレるという状態を卒業していくわけであります。 

 では、どうやってその時代を抜け出るのかという疑問が生まれることと思うのですが、これを述べるのは非常に難しいのであります。というのは、人間は常にトータルに発達していくからであります。 

 確かに発達心理学などでは部門が分かれています。感情の発達であるとか、知的発達であるとか、パーソナリティの発達であるとか、社会性の発達であるとか、細分化されています。学問はその性質上対象を部分に分けざるを得ないのでありますが、どの学問分野も人間の一部分を取り上げているものであり、その一部分に関しては正しいとしても、人間は全体的な存在であるため、その一部分だけで全体を表すことはできないのであります。それぞれの発達領域があることは認めるとしても、現実には人はトータルに発達していくものであります。 

 従って、全体を述べるとなると膨大な分量を記述しなければならない上に、際限がなくなるのであります。人間が全体的でトータルな存在である以上、それと無関係な領域というものがないからであります。それはすべてと関わっており、すべてがそれにかかわりを持つのであります。 

 以上を踏まえて、全体を述べることはできないけれど、何が重要であるのか、私の考えているところのものをいくつか述べるに止めておきます。言うまでもなく、ここで述べる以外に重要なものもいくつもあるのであります。 

 

(いくつかの観点) 

 基本的に乳幼児から児童あたりまでの年齢層を想定しています。 

 まず、何よりもキレた後のフォローという問題があります。人はキレなくなるのではなく、このフォローを内面化していくことにより、それ(キレること)に対する耐性を形成していくと私は考えています。 

 次に、運動能力も知的能力も発達していくことであります。満足の先送りを覚えるのであります。今この瞬間にそれが満たされなくても破綻をきたすことはないということを子供は分かっていくのであります。従って、安全感が増すのであります。安全感が増していくほど、脅威に圧倒される度合いが相対的に減少するのであります。 

 他者や社会的環境の影響も大きいのであります。家では自由に癇癪を起すことができたとしても、学校ではそれをしてはいけないという気持ちが生まれるのであります。周囲の人や環境への配慮が生まれてくるわけであります。 

 また、高次元の行動を獲得していくこと、人格水準を高く維持できていくようになること、それによって相対的に反射的・反応的行動は影を潜めていくのであります。低いものを抑圧や抑制するのではなく、高いものが生まれ、高いものがその座を占めていくことで、低いものは自然と抑圧・抑制されていくわけであります。 

 こうした抑制には仲間意識なども助けになるでしょう。キレてはいけない他者が存在してくるようになるのであります。これが分かるために、キレて仲間を失い孤立するという経験が必要になる場合もあるでしょう。 

 行為の予測ということもそこには関係してきます。自分のこの行為がどういう結末をもたらすであろうかという予測もできるようになってくるのであります。こういう予測ができるためには、時間的連続性の感覚が育っているということも大切でありましょう。 

 反省感情が育ってくることも重要であります。ああいうことをして(キレて)恥ずかしいとかいった感情であります。また、どうして自分だけこうもキレるのかといった疑問が生まれるということもあるでしょう。反省がそうした感情や疑問を生み出し、そこから改善に踏み出したという例もきっとあることでしょう。 

 また、学校に通って勉強をすることによって、よく考えるという習慣(現在の学校教育でそれが育つかどうかは別としても)が身につくということも重要でしょう。後に取り上げたいのですが、よく熟考する人はキレることがないというのが私の持論であります。 

 

(大人になってからの方が難しい) 

 まだまだ考えることはできるのでありますが、これくらいにしておきたいと思います。一つだけ重要なことは、乳幼児や児童においてはキレるということは通常に見られる行為であること、人はそこから抜け出ていくものであるということであります。しかし、子供時代に抜け出る場合と、大人になってから抜け出る場合とでは、後者の方がはるかに努力が要されると私は考えています。子供時代と状況や環境が大きく異なるからであります。 

 子供時代には大目に見られることであっても大人ではそうはいかないということもあります。また、子供時代にはそこから抜け出るための援助とか資源が多く用意されていたのに、大人になるとそれがなくなっているのであります。 

 大人になってからの改善は、そこに当人の意識的参与が欠かせないので、反省の有無ということがここでも重要になってくるのであります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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