<#009-24>AC問題に関する随想(5)
(行為の記述)
AC者に限らず、カウンセリングを受けるクライアントたちは心理学に関する本を読んでいたりします。もちろん、それはそれで構わないことなのですが、しばしば間違った読み方をされているように思われることがあります。
前項では主に三つの誤りやすい点を取り上げました。一つ目は、理論は自分の見解に対して適用されるものであり、他者に適用するものではないということでした。二つ目は倫理や価値を含めてはいけないということでした。三つ目は、理論をその人の全体に当てはめてはいけないということでした。
四つ目として、行為の記述と原因・結果の記述の混同という点を取り上げます。これはいささか理解しにくいかもしれませんし、分かっていてもついつい誤ってしまうことさえあるかもしれません。
これはどういうことかと言いますと、ある人の行為の記述は、原因や結果の記述ではないということであります。行為の記述はあくまでも行為の記述であり、原因や結果は、もしそれらがあるとすれば、そうした記述から考察され、導かれるものであります。これは事例の描写などで生じやすい誤りであると思います。
例えば、次のような一文があるとしましょう。「昨晩、父親が息子を激しく怒った。そして翌朝、息子は家出した」。この文章を考えてみましょう。
ここにあるのは、息子を激しく怒ったという父親の行為と家出をしたという息子の行為が記述されているだけです。この両者の行為の記述は因果を示しているとは限らないのであります。ここには時間的な前後関係が認められるだけであり、この前後関係からこの息子の家出の原因は父親が激しく怒ったからだというように早急に結論づけてはいけないのであります。
息子が家出をしたのは他の理由のためであるかもしれないし、たまたま父親の叱責が契機になっただけなのかもしれません。場合によっては、息子は自分が家出をするために故意に父親を激怒させたという事情さえあるかもしれません。息子の家出の原因なんて、この一文からは何も示されていないのであります。
行為の記述と因果の記述とは全く別の物であります。ある人の行為の描写を、そのまま原因や結果の記述にしてはいけないのであります。これは読む側も注意しなければならないところでありますし、書く側も注意しなければならないところであります。
AC者(に限ったことではないかもしれませんが)は、親のある行為がそのまま自分の結果となったような話し方をすることがあります。親がこれをしたので、自分がこうなったと、親のある行為をそのまま自分の原因の記述にしているわけでありますが、聴く側としては、こういう話にはよく注意しなければならないわけであります。そこで仮に、親の行為に関する描写と彼に生じた結果の描写とを分けてみようと私が試みると、彼らは決まって自分が信用されなかったという経験をするようであります。私としてはそういう意図はないのであります。行為とそこから結論づけられたものとを分けて見てみたいのであります。
人間というものは複雑なものであり、心とか精神で起きていることは本当は誰にも分からないのかもしれません。どれだけ心理学の理論が存在していようとも、その理論をすべて頭に叩き込んだとしても、人間を完全に理解することなんてできないでしょう。それを考えると、ある人の一つの行為が他の人の行為の因果になるということは、本当には言えないのではないかという気がしてきます。つまり、他者の行為と自分の結果とが一対一で対応するような因果関係なんてものは存在しないのではないかということであります。
仮に、ある人の行為が原因となったとしても、それは数ある原因の一つに過ぎないのかもしれません。
例えば、心の中に爆弾を抱えているという非常に激しやすいAさんがいるとしましょう。たまたまBさんがAさんに声をかけた時、Aさんの爆弾が爆発したとしましょう。Aさんの爆発の原因をBさんの一言に完全に帰属させることができるでしょうか。
Bさんの一言がAさんの爆弾の導火線に火をつけたかもしれません。しかし、本当の原因はAさんがいつまでも爆弾を抱えていることにあるのかもしれませんし、爆弾に安全装置を取り付けていないことが原因であるかもしれません。あるいは、Bさんの一言はまったく関係がなく、Aさんの爆発の原因は、Bさんと会うまで一緒にいたCさんにあったのかもしれません。
人間は複雑であるので、原因は多角的に考えなければならないのですが、どれだけ視点を増やしても、その原因が完全に究明されることなんてないと私は考えています。私の考え方がいささか極端に思えたとしても、ある人の行為がそのまま別の人の原因になるとは限らないという点は押さえてほしいと願う次第であります。
ここまで理論の誤った用い方として四点挙げました。
何よりも、理論は自分の考え方やものの見方を良くしていくものであり、自分に適用させるものであります。他者に適用するものではありません。これはメガネをかけるようなものです。私がよく見えるように自分にメガネをかけるのであります。決して他者にメガネをかけさせるわけではありません。AC者はしばしば親に対してそれをするのですが、私はそれはあまりいいことではないと考えています。
理論においては倫理や価値は度外視されています。しかし、AC者は倫理的に親を紛糾するために理論を用いたりすることもあると私は感じております。つまり、理論を攻撃の武器に用いたりするのですが、理論はそういう用いられ方をしてはいけないのであります。
理論として書かれていることは、私の一部であり相手の一部でしかないものであります。これを自分であれ他者であれ、個人の全体に広げてはいけないのです。これは結局、当人の視野を狭め、近視眼的にさせたり、現実の歪曲を促進させてしまうことにつながるかもしれません。
このことに関しては、次の点も補足しておかなければならないでしょう。子供時代は人生の一時期であり、それを人生のすべてとみなしてはいけないのであります。その理論は、人間の長い人生の中の一時代だけを取り上げているのかもしれません。この一部分をあまりにも全体にまで広げることには慎重でなければならないのであります。子供時代の親子関係でその人のすべてが決定されてしまうとすれば、そういう決定論を信じてしまうと、どこにも人生に希望を持つことができなくなってしまうのではないかと思います。人生の最初で失敗したら、後の人生は真っ黒けになるなんて信じてしまうと、どこにも光を見いだす気持にもなれないことでしょう。
ところで、100メートル走なんかの短距離競走というのはスタートが命であります。オリンピック選手なんかになると、スタートのほんのわずかの遅れ、0.1秒とか0.01秒といったわずかの遅れが勝敗を決定することもあるでしょう。そんなわずかの遅れを取ったからと言って、競技を棄権する選手はいないでしょう。スタートで出遅れて、ビリでゴールすることになっても、観客はそういう選手に拍手を送るものでしょう。ここはAC者がなかなか理解できない部分であると私は思います。
そして行為の記述はなんら因果関係を示すものではないという認識を取り上げました。
さて、次項では「理論の逆転」という現象を取り上げます。少し私の個人的経験なんかも交えて述べたいと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)