<#009-13>悲観主義(2)
(好ましい悲観主義と好ましくない悲観主義)
AC信奉者を見ていると、彼らは非常に悲観主義的であるという印象を受けています。この悲観主義の背景として、自我の弱化による無力感の増大、アイデンティティ感覚が曖昧になることによる時間性の喪失、並びに、彼らの信奉する理論そのものが有する悲観性を前項で述べました。
ところで、楽観主義が好ましくて、悲観主義は好ましくないと思い込んでいる人も少なくないように思うので、一つ訂正しておきたいと思います。私の考えでは、両者は一方が正しくて他方が間違っているという関係ではなくて、両者はそれぞれ好悪に分けることができるのです。好ましい楽観主義もあれば好ましくない楽観主義もあり、悲観主義に関しても同様の区別ができるわけであります。従って、悪い楽観主義は好ましい悲観主義以上に性質が悪いのであります。
良い楽観主義は物事の暗い面もきちんと見えているものであり、悪い楽観主義はただ暗い面を否認しているだけであります。好ましい悲観主義は物事の明るい面に本当は価値を置いているのであり、悪い悲観主義は明るい面に心を閉ざすのであります。
好ましい悲観主義に関してもう少し言うと、彼らは暗い面を主に見てしまうけれど、彼らが望んでいるのは明るい面に属する事柄であるのです。幸福に価値を置いているからこそ、幸福が不在の状況を深刻に感じ取ってしまうわけであります。私はそのように考えております。従って、好ましい悲観主義においては、事物の価値や意味が喪失していないのであります。同じことは好ましい楽観主義においても言えることではないかと私は考えています。
(悲観主義は価値や意味を奪う)
さて、私たちはAC信奉者の話に戻りましょう。
彼らは悲観主義的であり、ニヒリズムのような状態に陥っていることが稀ではありません。それも悪い悲観主義であります。この状態に陥るとは、物事から価値や意味が速やかに彼らから失われていくということを意味しているのです。
働くことであれ、辛い状況を耐えることであれ、あるいは努力して何かを達成することであれ、そうした行為から価値や意味が失われていくという経験はAC信奉者からはよく耳にするところであります。彼らのエピソードにはその種の体験がよく見られるのであります。そうして彼らは無為な生活に落ち着いてしまうところがあるように私は感じています。
また、この傾向は彼らが新たに動き始めることを阻むものであります。何かを始めようとしても、対象から意味が失われてしまうのです。それが治療であっても然りであります。それは意欲を失うという形で顕現化することが多いのですが、それをすることの価値、それを続けることの意味が彼らから急速に失われていくためであると私は考えています。
時に、彼らはその経験を疲労感として訴えることがあります。それをすること、続けることがしんどくなるというわけであります。これは体力とか気力とかいった問題ではなく、意味や価値の問題であると私は考えています。これは彼らだけに限ったことではないのです。むしろ人間は誰でもそうではないかと私は思うのです。どうして毎日そんなしんどいことができるのか、それはそこに価値や意味があるからであります。価値や意味が失われると、それをすることはただの苦痛でしかなくなってしまうのです。「うつ病」者の話を聞くとそのことがよく分かるのです。
悪い悲観主義は事物から価値や意味を奪い、その人の行動を制限してしまうのであります。
(親だけが価値を帯びる)
価値や意味というものは、もちろん個々人によって異なるものであります。同じ行為をしている二人であっても、その行為の持つ意味、それをすることの価値などは両者で一致していないでしょう。価値や意味はその人にとってのものであり、その人固有のものであります。このことが端的に分かるのは趣味であります。その趣味に価値を置いていない人、意味を見いだせない人は、どうして彼がそんな趣味に凝るのか理解できないのであります。
しかしながら、AC信奉者は一様にある一つの対象に価値や意味を見いだしているのであります。それは親であります。彼らにとって親だけが価値と意味を担うのであります。彼らはそのような状態にあるように私は思います。
この価値は、好ましい肯定的な価値は少なく、嫌悪する否定的な価値をより多く帯びていることが常でありますが、価値を置いていることに変わりはないと私は考えています。彼らは親とか過去の家族関係などに価値を置き、そこに意味を見いだしているので、彼らの心的エネルギーはすべてそこに注入されてしまうのでしょう。
(価値の喪失は生の停滞と結合する)
しばしばAC信奉者は親に取り組む(決して自分にではない)のです。そこに過剰な価値や意味が投入されているためでありましょう。彼らの中には四六時中親の分析に没頭しているような人もあります。決して自分自身のことには取り組めないようであります。
次に述べる自己の没頭とこれは関連することでありますが、彼らは親や親との関係に関する事柄に没頭するようになります。自分のことに取り組んでいるわけではないけれど、自己に没頭し始めるのであります。これに関しては次項で取り上げます。
このような行為は、彼らが新しいことを始めたり、新たな場面に飛び込んだりすることを大いに阻む結果になります。仮にそれができたとしても、速やかに意味や価値が喪失していくので、彼らはそれを速やかに断念するわけであります。
彼らの主観的経験としては、それは意欲がなくなるとか疲労が蓄積するなどと体験されているでしょう。周囲の人から見れば、それは根気がないとかやる気がないとか評価されてしまうかもしれません。それは彼らの疎外感を増してしまうことにつながるかもしれません。
彼らは躊躇や逡巡する場面も多く経験することでしょう。自我の弱化によるところも大きいとは思うのですが、どれにより価値があるのかが見出せないということも関係していると私は考えています。こうして彼らは不決断の状態に陥ることも少なくないと私は感じております。
逡巡や躊躇、不決断は、彼らの親のせいというよりも、彼らの悲観主義の賜物であるように私には見えてしまうのです。例えば、試しにやってみてもいいとこちらが思うことであっても、彼らはそれをやることの無意味さを感じ取り、あるいは、やる前から不成功や挫折といった最悪の事態を予期してしまったりして、踏み出さないまま留まるように思います。
上述の最悪の事態を予期してしまうとは、こういうことであります。一度それで失敗しているから、次もまた失敗するだろうと確信するようなものです。仕事で挫折を経験したAC信奉者が、10年ほどの引きこもり状態から脱しようと、再び仕事を始める決意をしました。しかし、そのために動き始めるや、彼の中では10年前の忌まわしい記憶がよみがえってくるのです。それは要するに、次の職場でも以前経験したのと同じことが確実に起きると信じてしまっているのです。この不幸の確信は悲観主義でありますが、時代や状況の変化を一切考慮に入れていない(時間性の喪失)ことは明らかであり、この確信は、次をやっても同じ失敗を経験してしまうの(が決定されているの)であればやるだけ無駄であるというように、意味や価値を奪ってしまうように働くわけであります。
そうして生の停滞が続いてしまうのですが、悲観主義はこの生の停滞を許容する形で作用するように思います。彼らはこの生の停滞に対して、不安を経験することも、焦燥感に駆られることも、あまり無いように思われるのですが、それはどこかで生の停滞を許容してしまっているのだと私は思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)