<#009-11>敵意の問題(2)
(自我の弱化)
AC信奉者には彼らにとって「問題」となる対象があります。それは親ということになっています。彼らの内の何人かは次のことを認めてくれたのでありますが、彼らはそれ以前にはその対象に対して否定的な感情は抱いていたとしても、そこまで明確な敵意は抱いていなかったのであります。AC信奉以前と以後とでは対象に対する感情体験が異なっているのであります。なぜ以前とは違った感情体験をしてしまうのかということに関して、前項において、私は自我の防衛機制の観点から考察しました。
以前は対象との間に距離を取ることができていたのでした。ここでいう距離とは物理的な距離ではなく心理的な距離ということであります。少なくとも彼らは対象に過度に脅かされない程度に対象との間に心的距離を保つことができていたのでした。少なくとも、対象に対して安全感や安心感を確保できる最低限度の距離が取れていたのでした。
そのようなことができるのは自我の機能のおかげであると私は思います。心の適応的な働きであるように私は考えています。
しかしながら、何らかの出来事を契機にして、彼らの自我が機能破綻を来たすようであります。この機能破綻によって、あるいはそれによる自我の弱体化によって、その対象との距離が保てなくなり、対象との間に距離がなくなってしまうのだと私は思います。私から見ると、彼らの方が対象との距離を失ったのでありますが、彼らからすると対象の方から一方的に心の中に侵入してきたように体験されているかもしれません。
対象との距離がなくなるということは、それだけ対象からの脅威に晒されることになるわけであり、その脅威が彼らを圧倒してしまうのでしょうか。この圧倒に対して激しい敵意が生まれてしまうのかもしれません。
AC理論はそういう彼らにとってどのような意味を持ってしまうのでしょうか。私は後にその点も考えてみたいと思います。その前に、この理論は、受け取り手の自我を弱体化させてしまう理論であるとまでは言わないのですが、自我が弱まった人たちには訴えるものがあり、魅力のある理論として映るように思われるのです。
ただ、この理論は彼らの自我を強化する方向には作用しないようであります。その信奉者たちもその方向に進めないままその状態に留まるようであります。そうして彼らの自我並びにその機能は弱化したままであり、さらにはその傾向がエスカレートしていくように思います。
自我機能の弱化がエスカレートするとは、例えばこういう場面を経験するようになるということです。以前なら適応できた環境に適応できなくなったり、以前なら気にならなかった他者の言葉がたまらないダメージを与えてきたり、以前なら耐えられたことが耐えられなくなったり、以前なら抑制できていたものが抑制できなくなったりといった、そのような場面をより多く経験してしまうことになります。これは以前よりも自我が弱まっている状態にあるとみなすことができるように思われるのです。
こうして世界は彼らにとってはますます生きにくい場所になり、人生は耐えがたい経験の連続となってしまうのだと思います。
(敵意への囚われ)
さて、私たちは敵意の問題に焦点を当てましょう。この敵意に彼らは囚われるようになるのです。四六時中それにかかりっきりといった感じの人も中にはいるのです。
それだけにかかりきりになるので、それにエネルギーの大部分が消耗されてしまうことになります。それは彼らから活力を奪い、倦怠と疲労をもたらすようであります。従って、彼らはいつも不機嫌そうであったり、不活発そうであったり、疲労しているようであったり、不満足そうであったりしてしまうのです。そのような状態に陥ってしまうように私には思われるのです。
周囲の人たちはそのような状態に陥っている人とはあまり付き合いたいとは思わないかもしれません。時に、彼らはあまり周囲の人から好かれないといったことを嘆くのですが、ある意味ではそれは当然であるようにも私には見えるのです(後述「当然性の喪失」)。
彼らは敵意の虜になり、それにかかりきりの状態になります。こうして自己への過度な没頭(後述「自己への没頭」)へと至ることになります。この没頭によって、他の経験が制限されてしまう事態に彼らは陥るようであります。彼らは体験にしろ、人生の領域にしろ、それらを広げていく機会を自ら閉ざしてしまうので、それが彼らの生の縮小や心の貧困化をもたらすようであると私は考えています。
さらに他にも制限される領域があります。彼らは敵意にとりつかれたようになっているため、その他の感情体験が制限されてしまう(後述「悲観主義」)ように思います。AC信奉者を見ていて私が思うのは、彼らは喜びとか幸福感とか、そういう望ましい感情体験を一切しなくなるようであります。仮にそれらを経験できたとしても、彼らの中で無化される(後述「悲観主義」)こともあり、好ましい感情が維持されないこともよく見られるように私は思います。中には積極的にそういう感情を締め出しているような人や、そういう感情をもたらすような機会に背を背けているような人もおられるように私は感じております。
いずれにしても、彼らは不幸に身を置くようになるのです。その不幸に積極的に自分自身を投げ出すようであります。敵意は彼らに希望を失わせ、好ましい感情を制限し、不幸感情に彼らを導くように思います。
感情体験とその他の種々の体験、並びに世界や人生、それらが制限されていくうちに生が縮小していき、彼自身の心的貧困化(後述「自己の放棄」)へと至るように私には見えるのであります。俗っぽい言い方をすれば、要するに彼は無産者となり「廃人」と化してしまうのであります。
彼らの生も体験も縮小化していき、より窮屈な人生を送るようになるようです。無力感や悲観主義に陥る人も多く、それに対してさらに敵意が増長してしまうという印象を私は抱いております。そして、この増長する敵意がさらに彼らの体験や自己を制限していくようになると思います。そこに悪循環を見る思いがしております。
(本項終わりに)
さて、以上述べたところのものを端的に述べるなら、敵意がその他の諸問題の根底にあり、その他の問題と深く関わるものであるということであります。私はそのように考えておりますので、上記の記述をしたのであります。
当然のことながら、これらの記述には個人差があるということは念頭に置いていただきたく思います。上記を読んで、AC信奉者が最後には必ず廃人になると私が言っているとか、そのようには解釈していただかないようにお願いします。彼らの示す多彩な問題の根底には敵意の問題が関係していることを記述するのが私の目的であったのであり、何か法則や予言めいたものをここに読み取らないようにしていただきたいのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)