<#008-26>カウンセリングに至るまで 

 

(はじめに) 

 ここでは親カウンセリングの経緯を述べることにします。本題に入る前に表記に関して一つ注意しておくことにします。 

 私が述べることはすべて私の個人的見解であり、私の個人的体験に基づいています。私の経験範囲内でのことを記すことになります。従って、私がここで断定的な表記をしたとしても、それは私の個人的見解であります。そういうものとして読んでいただくようお願いします。 

 おそらく、多くのことを記述していくことになるでしょう。表記を簡略にして、煩雑な言い回しを避けたいと思うからであります。 

 

(言葉に関して) 

 ここでは家族のことが取り上げられます。特に親と子であります。カウンセリングを受けに来るのはほとんどが母親であるので、母親と子と表記することになるでしょう。父親が受けに来る例も少数ながらあるのですが、父親に関して述べる場合には父親と表記します。特に両者の区別をしない場合は単に「親」と表記します。 

 母親がカウンセリングのクライアントであります。子は「IP」と表記することがあるかもしれません。IPというのは家族療法で使用される言葉であり、「問題があるとみなされている人」を指しています。ここでは子に問題が見られているからそのように表記することもあります。 

 

(「ひきこもり」) 

 子はいわゆる「ひきこもり」の状態にあります。 

 「ひきこもり」という言葉は非常にあいまいであります。これは外部からの観察に基づいた表現であり、子の状態を記述しているものではなく、且つ、子の「問題」を表しているわけでもありません。曖昧な表現でありますが、広く人口に膾炙している言葉でもあるので、ここでも使用することにします。 

 

(記述の範囲) 

 カウンセリングのプロセスを記述していく予定でありますが、おそらく全体を記述することはできないでしょう。私が述べるのはあくまでも最初の部分のみになるでしょう。 

 フロイトは精神療法の過程をチェスに例えて表現しました。述べることができるのは序盤の部分のみであって、その後は個々の局面に応じて述べなければならなくなるという主旨のことを言っているのですが、私も同感であります。 

 最初の序盤の部分というのは、割と多くの人が共通しているところがあるのです。カウンセリングが進展していくと、個々のクライアントが独自の展開を見せるようになるのであります。その人固有の動きが見られるようになるわけです。 

 そして、個々の展開を見せるようになればなるほど、プライバシーの問題が発生してくるのであります。個人が特定されるという危惧が生まれ、それが記述を困難にしてしまう一因となっているのです。そのことも全体を俯瞰することの妨げになっているのであります。 

 繰り返しますが、私が述べることができるのはカウンセリングの序盤の部分のみであります。それで、本項では親がカウンセリングを受けるまでの経緯を取り上げることにします。カウンセリングが始まる以前のものを記述していくことになります。 

 前置きはこれくらいにして、本題に入っていくことにします。 

 

(不登校歴) 

 子の「問題」がいつ発生したのかは特定できないものです。時に、その兆しが明確に表れているのに、親も子もそれを見落としたり、それを過小評価していることもあります。 

 ひきこもりにある子の中には不登校歴がある例も多いのです。この不登校は、一応登校再開できている場合もあれば、そのまま「引きこもり」状態に移行してしまっている例もあります。 

 不登校状態から登校を再開した子の中には、かなり無理をして登校再開した人もあるようです。中には不登校をもたらした問題をくすぶらせたまま表面的な適応をしてきたという人もあるのです。従って、登校再開できたとしても、それは必ずしもその問題を克服したという意味ではないかもしれないのです。親は、子が登校再開したので、それで問題解決したと思い込んでしまうこともあるようです。 

 不登校からそのまま「ひきこもり」状態に移行していったといった例では、個人の歴史において学生時代が限局されなくなります。私たちの歴史はそれぞれの時代に応じて区分できます。小学校時代であるとか、中学校時代、高校時代、大学時代などといったようにです。今述べたものは外的な区分であるかもしれませんが、こうした区分は、アイデンティティの確立に案外大きな意味を有しているのです。一つの時代が終え、次の時代に移っていくことで、私たちの歴史が蓄積されていくという一面があるためです。そういう節目というものが心理的に意味を持っているのであります。 

 不登校の延長で引きこもり状態なったという例では、そういう節目があいまいになっており、アイデンティティが拡散している感じの人も多いように思うのです。そういう印象を受けることが私にはあるのです。 

 また、その不登校が発生した時期も子によってさまざまであります。小学校時代に起きた不登校と中学生以降に起きた不登校とでは違った風に考える必要があります。 

 小学校時代、年齢が幼い時期に生じた不登校は親子関係に起因していることが多いのですが、中学生以降、つまり青年期に差し掛かる時期に生じた不登校は、親子関係よりも、社会的な関係に起因していることが多いのです。 

 

(出社拒否) 

 さらに年齢が上がると、それは不登校ではなく、出社拒否と呼ばれる形で表れます。この人たちは、学校に通い、学校も卒業してきた子であります。正社員であれ、アルバイトであれ、就労の経験がある子です。 

 そこでつまずきを体験し、仕事に行かなくなり、徐々にひきこもり状態になっていくといった感じの子もいます。 

 こうした出社拒否は青年期の不登校問題の延長上にあるものが多いように思います。加えて、その職場の環境や社会的な場面での困難を経験していることも多いようであります。学校とは違った世界がそこにはあり、それに適応することに困難を覚えた子であることが多いようであります。 

 

(対人的ひきこもり) 

 また、学校にも行っていたし、職場にも通っていたけれど、引きこもり状態になっていった人の中には、不登校も目立った出社拒否もないけれど、対人的に引きこもっていたという感じの子もけっこうおられるのです。 

 つまり、学校であれ仕事場であれ、表面的には対人的交流や社交が見られるけれど、人の集まる場に居ても心理的に引きこもっているといった感じの子であります。対人関係から身を引き、あまり人と交際せず、人と交際しても自分を開示したりすることなく、一人でいることを好み、親しい人をつくらないといった子であります。 

 しばしば、こういう子は問題がないというふうに親は評価しているのです。だから、この親たちは子がひきこもるようになったのが信じられないと思うのです。 

 心理的な引きこもりから現実にひきこもるようになる過程にはそのきっかけとなる出来事がみられる例もあります。子はその引き金となる経験をしていることがあります。その経験によって、心理的に抱えられなくなった、あるいは心理的なひきこもりでは十分に自分を守れなくなったといった印象を私は受けます。つまり、心理的にひきこもるだけでは十分自己防衛ならなくなり、そのため現実にひきこもりをしなければならなくなっているということであります。 

 

(起源はわからない) 

 ここまでをまとめておくと、子には、引きこもりが発生する以前に、不登校や出社拒否、対人的引きこもりが見られることが多いということであります。従って、子の引きこもりの起源がどこにあるのか特定することは困難であり、原因も不明であることが多いのです。 

 なぜこういうことを述べるのかと言いますと、しばしば親には子の問題がいきなり始まったように見えるからであります。子を理解しようとするなら、歴史的な視点を持つこと、子の問題を歴史的に把握する必要があるのです。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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