<#008-20>社会の体現示せないこと 

 

 親たちの誤りをあれこれと綴ってきました。まだ他にも取り上げたい誤りはあるのですが、一旦、ここまでにしておこうと思います。あまり「誤り」ばかりが記述されていると読む方も嫌気がさしてくるかと思いますので、この話題はとりあえずここまでにしておきます。 

 「誤り」といっても、親は知らずにやっていることが多く、何がどう良くないのかが見えるようになればいいと私は思います。時に、親はそれを「良かれ」と思ってするのですが、結果的に、子の状態を悪化させていたり、悪い状態を持続させてしまっていたりすることもあります。そういう視点を持つことができればそれでいいと私は思います。 

 誤りの最後に一つだけ追加しておきたいものがあります。 

 

 何よりも、一番の誤りは、親が「社会」の代表に失敗してしまうところにあると私は思います。 

 子は社会との接点を失った状態にあります。子に社会に出てもらいたいと欲すれば、親は社会の「代表」となる必要があると私は考えています。社会の代表となるといっても、難しいことではなく、社会的な常識性を示せればそれで良しであると私は思います。 

 ただし、このことは子の状態(病態水準と言っていいのですが)によって、修正する必要も生まれるので、個々の親子関係に即して考えていかなければならない問題でもあります。 

 いくつか、私の経験した例を挙げておきましょう。 

 

 ある娘は母親を非常に嫌悪していました。娘は朝から不機嫌だと母親は言います。娘はブスッとして、母親を無視するようであります。朝、娘が二階から降りてきた時にどうしたらいいのかと母親は私に問うので、「おはよう」と言えばいいと伝えました。 

 さっそく、翌朝から母親はそれを試みました。朝、降りてきた娘に「おはよう」と声をかけたのです。娘はそれを全く無視するのでした。それでも、母親は毎朝「おはよう」と娘に声をかけます。娘は毎朝それを無視するのでした。 

 一か月くらいすると、娘が怒りだしたのでした。朝降りてきて「おはよう」などと言うなと娘は母親に怒鳴り散らします。母親はたじろいだようですが、私から見ると、否定的な形であれ、娘は母親に関わりはじめているのです。 

 娘が怒るのでどうしたらいいかと母親は私に問います。娘の感情抜きで朝の挨拶を続けるよう、私はお願いしました。 

 ところで、この娘は母親が自分に社会的な常識を教えなかったから自分は社会に適応できないのだという信念を抱いていました。朝、会ったときに「おはよう」と挨拶するのは社会的な常識であります。嫌いな相手であろうと、あるいは自分が不調であろうと、朝の挨拶をすることは常識的な行為であると私は思うのですが、いかがなものでしょうか。 

 それはさておき、母親は朝の挨拶をします。娘もそれに答えて「おはよう」と返事すればそれで済む話であります。娘は感情的にそのことを容認できないのでしょう(感情的正当性の優位)。でも、朝会った時に「おはよう」の挨拶をするというのは常識的行為であるので、本当は母親の行為は娘の信念と一致しているはずであります。母親は社会的常識を娘に教えていることになるわけです。でも、娘がそれを拒むのであります。 

 

 しばしばあるのは、子が母親を深夜にたたき起こすという類の行為であります。私たちは、よほどの重大事がない限り、相手が就眠している時間に起こすということはしないのであります。 

 しかし、子は自分の感情でそれをするのであります。深夜、寝ている親をたたき起こして、自分の感情に付き合わせるのであります。こういう時、親が「良い親」であることが多く、親は子のそれに延々と付き合うのです。常識という観点にたてば、親は子の非常識を容認していることになるわけです。 

 少し別の観点に立つと、子のこの無規則的な行為を無制限に容認することは望ましくないのであります。もし、話をするのであれば、規則を設け、制限を設定しないといけないのであります。と言うのは、子はそれをコントロールできないからであります。自分で統制できないので、外的な枠を設けた方がいいということになるわけであります。その行為を子の統制下に置こうとすれば、そうした方がいいのであります。当然、子はその方針に強く反対することでしょう。 

  

 親を奴隷の如くに使ったり、誹謗中傷の長文メールを送ったり、あるいはすべてを肩代わりさせようとしたり、自分に奉仕することを強要したり、子はさまざまなことを親に対してするのです。先述しましたが、子の病態水準によってどの程度それを容認するかが異なってくるのですが、基本的に、親は社会の窓口になっていることが望ましいと私は考えています。従って、それらの行為は禁止ないし修正しなければならなくなります。 

 親がそれをできないのは、親に社会的常識が欠落しているからではなく、それをすると子からの激しい「反撃」を食らうからであることが多いようであります。親が正しいことを教えても、子はそれを受け入れないし、却って悪感情を掻き立てられ、子はそれをする親を攻撃するようであります。 

 子は子で、自分が社会で生きられないことに失望していることもあります。親が社会で生きていくのに必要な常識を教えようとしても、子はそれを拒む上に、親以外の人から学ぶという機会もないので、子はますます社会から遠のくことになってしまうのです。 

 

 ここまでの記述をまとめると、親は親であると同時に一人の個人である方がいいと私は考えています。子を大切に思うのと同時に、親は親で自分たちの人生を持ち、自分たちの生きがいを持っている方がいいと思います。もし、良かれと思ってしたことが実は間違っていたということがあれば、学んで、修正していけばいいと私は思います。それが過去の間違いであっても、それを子に謝罪するよりかは、より正しいことを実践していく方が建設的であると思います。そして、できれば、親が社会的な常識を体現していることが望ましいと私は考えています。 

 

(文責寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

PAGE TOP