<#008-11>「様子を見る」という誤り
前項では「好きにしたらいい」とか「自由にすればいい」という誤りを取り上げましたが、それと類縁にある「様子を見る」という誤りを本項では取り上げることにします。
前項で取り上げた母親と息子の例を続けることにします。
(様子を見るという誤り)
高校を中退後、子供は十年近く引きこもっています。その間、母親は何をしていたのでしょう。母親は言います。
母親「様子を見ようと思って、そうしてきました」
私「様子を見るとは、何の様子を見るということなのでしょう」
母親「子供がどうなるかを見守ろうと思っていました」
私「それが様子を見るということなんですね。それで子供にどんなことをしてきたのでしょうか」
母親「様子を見てきました」
私「それでどんなことを子供にしたのでしょうか」
母親「様子を見てきました」
こんな問答が延々と続いて、どうやらこの母親を辟易させたようなのですが、お読みになられたあなたにはこのやりとりが理解できるでしょうか。
(様子を見るとは)
私たちは「様子を見ましょう」と相手に言ったり、相手から言われたりします。まずは、この言葉の意味をここで確認しておきましょう。
例えば、医師が患者にある処置を施し、その上で「様子を見ましょう」と伝える場面があるとします。この時、様子を見るのはこの処置の経緯なのです。この処置がどのように功を奏するかを見るということなのです。様子を見るとは、何かが施されて、それがどのようになっていくかを見てみようということなのです。
母親は子供の様子を見ると言っています。私からすると、子供に何かを施して、それでその経緯を見るという意味に受け取ることができるのです。それで、母親に対して、子供にどんなことをしたのかを尋ねているわけであります。
この母親の述べているところでは、「様子を見る」という処置を相手に施して、その経緯の「様子を見る」ということになるのです。当然、これは何もしていないということに等しくなってしまうのです。
少し言葉がきつくなってしまったら申し訳なく思うのですが、何の処置も施していないのに「様子を見る」というのは、私には「放任」でしかないように思われてくるのです。母親は、子供を「放任」したわけではなかったかもしれませんし、子供に対してあまりにも「無力」な自分を経験しているだけなのかもしれません。その「無力」さの表れであったのかもしれません。
(目的と限界設定)
決して「様子を見る」ということが間違っているわけでもありませんし、悪いことでもありません。そこは誤解のないようにお願いしたいのですが、上述の母親の言う「様子を見る」には、目的と限界設定が明確ではないという点で誤っているのです。
様子を見る際には、それをする目的があるのです。既述の喩えで言えば、処置を施し、その処置が功を奏するか否か、どのように功を奏するかの経緯を見るという目的があるということです。
限界設定というのは、どこまで様子を見るかという限界ラインのことであります。処置を施し、3か月様子を見ましょうということであれば、3か月というのが限界設定に当たるわけであり、それ以上の「様子見」は不要であることを述べているわけであります。
上述の母親は、何のために様子を見るのかが明確になっていなかっただけでなく、いつまでその様子を見るかという決定もなされていなかったということであります。その点において、この母親は誤っていたと私は考えるのです。
(次のことを考えること)
目的と限界を設定するのは、さらにその次のことを考えるためであります。様子を見ること自体が目的ではないのです。
例えば、カウンセリングにおいて、とりとめのない話をする人がいるとしましょう(現実にこういう人はおられるのです)。私はそれに介入して話を整理するのを手伝うこともできるでしょう。しかし、時には、自由に話してもらうこともするのです。
それは、この人の話が最終的にどこに行き着くかを見るためであります。いわば様子を見るわけであります。どこに行き着くかを見ることが目的であり、「どこかに行き着くまで」というのが限界設定になっているのです。そして、この人の話がどこに行き着くことになるのかを知った上で、この人のことを理解していく(その方がはるかにその人のことを理解できるという場合もあります)のです。
様子を見ること、そこには目的があり限界設定がなされています。そして、様子を見ることは次のことを考えるためでもあるわけです。様子を見た結果、次はこうしてみようといった指針が生まれたり、次はこうなるだろうといった予測が生まれたり発展が生まれたりするのです。様子を見るというのは、一連の流れにおける一つの手段であり、一つの段階でしかないものであります。
(突き放される経験)
何人かのクライアントから、様子を見ましょうというお医者さんの言葉で不安になったという話を私は伺ったことがあります。どうも、「様子を見よう」とか「好きにしていいよ」と言われることは、自分がどうでもよい人間だと思われているのではないかとか、自分には何もしてくれないのではないかとか、そういう不安が生まれてしまう人もおられるようです。いわば、自分が突き放されたような、見捨てられたような経験になってしまうようであります。
その言葉がどのように受け取られてしまうかに関しては、言葉を発する側も受け取り手のことを完全に把握できているわけでもないので、話し手の意図に反して、それが悪い意味合いの言葉として受け取られてしまう場面が生じてしまうのです。私はそれは完全には避けられないことであると思っています。
本項で取り上げているのは、基本的には親子の場面なので、カウンセリングや医療の場面とは異なるかもしれません。親は子供の様子を見ているつもりでいたかもしれませんが、子供は自分が見放されてしまったと経験していたかもしれません。もし、そういうことが起きているのであれば、その齟齬は埋めていった方がいいと私は考えています。
そのために、親は何のために子供の様子を見てきたのか、様子を見てきた結果、子供に対してどういうことをしようとしていたのか、様子を見ることで親自身にどういう感情が生じたか、そうしたことを明確にする必要があると私は考えています。
いつか、子供にそういう話をする時が来るかもしれません。親が子供を見捨てていなかったということを子供に分かってもらう場面が出てくるかもしれません。その時に「ずっと様子を見てきた」としか親が言えないとすれば、子供は親が何も考えてくれなかったと信じてしまうかもしれないのです。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)