<#008-6>親の不安

 

(不安が体験されること)

 前項(<#008-5>)をお読みになられた方の中には、私がやたらと親の不安ということを強調しているという印象を抱かれたかもしれません。これに関していくつか補足しておこうと思います。

 子供が長年問題を抱えているようであり、親はそれを見てきているのであります。親が不安を持つのは当然なことであります。こういう不安を抱える親は概して「良い親」であるというのが前項の主旨でありましたが、子供のことが無関係になっていないから不安も経験されるのであります。

 その不安に対してその人なりの対処があるのですが、その対処が功を奏しているうちは当人は不安の存在に気づかないかもしれません。親も不安に対処できているうちは、不安を抱えているようには見えないかもしれません。

しかし、カウンセリングの中で改めて自分がいかに不安な思いを抱えながら子供と接してきたかを知ると、中にはかなり動揺してしまう親もおられるのです。そうした動揺を少しでも緩和したいという願いも込めてこれを綴る次第なのです。しばしば母親たちはこういう不安に直面してしまうのであります。

 また、親が不安に耐えられるようになればなるほど、不安を不安として体験する確率が高くなるという、一見すると逆説めいたことも起きるのです。不安は他の感情にすり替わることもあれば、行動でごまかすことも可能であり、その場合、不安はそのままの形では体験されないのです。不安に強くなればなるほど、つまり自我が強化されて不安を体験できるようになると、不安を他の感情にすり替えたり、行動でごまかす必要が減ってくるので、不安をそのまま体験することが増えるということであります。

 従って、カウンセリングを受け始めた頃はそうでもなかったけど、継続していく中で不安が体験されるというケースがあるわけです。カウンセリングの途中から現れてくる不安なのです。当人からすると、その不安は急に始まったように見えるかもしれません。私から見ると、その不安は前々からその人の中に体験されていたもので、ここに至ってようやくそのままの形で体験できるようになったのです。

いずれにしても、そのような経験をしてしまう親たちが呈する動揺を緩和したいという気持ちから、親の不安を強調する次第なのです。

 

(親は常に不安だった)

 カウンセリングを受ける親たちが初めから不安を体験している場合はともかくとしても、途中から不安に襲われ始める親たちがここでは焦点になっています。そういう親たちは自分の不安に驚かれるのです。それでこの不安にどう対処していいかで困惑を示されるのです。

 この不安はカウンセリングで明確に体験されるようになったとは言え、親たちがこれまでずっと体験してきたものでもあります。それは怒りや無関心といった別の感情に置き換えられていたり、強迫的な行動でごまかされたりしてきたものでした。そういうエピソードがこの親たちから語られるのであります。

 ある母親は自分が一貫していなかったと反省しています。不安定で、事あるごとに動揺してしまっていた自分を回想します。不思議に聞こえるかもしれませんが、この母親はその時々で不安に襲われていたのだということに最初は気づいていませんでした。

 この母親の下で、子供は混乱するでしょう。子供が同じことをしても、ある時は過剰なリアクションが返ってきたり、別の時は叱られたり、さらに別の時は無視されたりするわけですから、子供もまた母親に対して一貫した態度を持つことができなかったことでしょう。

 また別の母親は子供(娘)のことになると支離滅裂になってしまうのでした。昔からそうであったようで、娘は母親の言うことは訳が分からないと憤慨していました。この支離滅裂さの背後にも母親の不安が働いているように思われました。つまり、母親の不安が強くなりすぎるので、娘の言動の意味が把握できなくなるようでありました。

 不安が強いと、本質的な部分が見えず、周辺的な事柄に目を奪われるということも起こります。ある子供が母親に何かを伝えます。母親は肝心なところを把握できず、些末なところに拘ってしまうのです。この子供はやがて母親に物を言う気がしなくなり、言葉ではなく暴力で伝えるようになったのでした。母親にはどうしてそうなってしまうのか訳が分からないと体験されていたようでしたが、その都度不安に襲われてきたのだと私は思います。

 さらに、上記のことと関連するのですが、不安の強い人は物事を歪めて知覚する傾向が高まるのです。自分に見えているものが信じられず、そういうものを見たような気がするといった感じとして知覚していたりすることもあります。対象に対して不安を投影してしまうので、現実以上に良くないものを対象から見出してしまうということもあります。

 見たものが信じられない場合、自分の見たものに根拠を置くのではなく、理論を根拠にしてしまうこともあるようです。対象を見るよりも、理論を見てしまうのです。そういう時に「母親の育児に原因がある」などという理論を見てしまうと、容易にその理論に影響されてしまうのではないかと私は思います。つまり、母親にとって厳しい理論であっても、何か確かなものが自分の中に得られるのであれば、それを採択したくなるのではないかとも思うのであります。

 

(子育ては不安の連続である)

 そもそもどの親も子育ての経験はなかったのであります。親になって、子供が生まれてから初めて経験することなのであります。このことは、母親だけでなく、父親も同様なのであります。母親の孤立ということも言われるのですが、一方では、父親も分からないことが多いのではないかとも私は思うのです。祖父母のような経験者が常に家族内にいるとは限らず、それこそ親たちは手探りで子育てをやっていくものではないかと思います。子育てに不安がつきまとうのは当然のことであると私は考えています。

 そうした不安はその親の子育ての仕方に影響するものであります。詳細は別に譲りますが、不安であるがゆえに親も間違えてしまうこともあるのです。そして、間違ったものを受け取った子供は、そこでダメになってしまうのではなく、後の人生において修正していくことも、あるいはそこから立ち直ったり回復していったりすることも可能であると私は考えています。

 「子供の問題は母親の育児に原因がある」などと主張する心理学者は、母親の不安というものを見過ごしており、子供の回復力を信頼していないと私は考えています。こういう心理学者は子供を単に親の被造物とみなしている決定論者、運命論者のように思われてならないのであります。

 親が抱えている不安こそ改善されなければならない部分であり、その不安は親だからこそ経験するものであるのです。そして、その不安がカウンセリングにおいて意識化されることがあるということを本項では特に申し上げたいと思います。

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

 

PAGE TOP