<#007-31>臨床日誌~「ゼロか100か」
僕のクライアントさんのことではなく、僕のバイト先で長期欠席している人のことだ。僕と同世代くらいの女性なんだけれど、体の具合がいつも良くないらしい。かつて自律神経失調症だということを小耳に挟んだことがあるが、詳しいことは知らない。そもそも、少なくともここ一年以上はその人と会うことがないのだから、情報が入ってこないのである。もっとも、その人のことをもっと知りたいと思うわけではないが。
最近、他のスタッフさんがその人のことを噂していた。僕は傍で聞いていた。スタッフさんの話だと、その女性は「自分はゼロか100かなので、中途半端ができない」などと言っているそうである。僕は「さよか」と聞き流した。どうでもいいことだ。
ところで、「ゼロか100か」は中途半端ができないということではなく、それ自体が中途半端なのだ。というのは、その人はゼロにも100にもなれない上に、ゼロの時や100の時があるっていうことだから。中途半端だからゼロか100かになってしまうのだ。僕はそう考える。だから、いっそのこと、ゼロならゼロで、100なら100で徹してみたらよいのになどと思ってしまう。
100で徹して、壊れたらどうするのだなどと彼女のような人は言うかもしれない。それでもいいと僕は考える。徹してみて、そこで新たに見えるものがあればいい。壊れてみて、初めて自分自身に取り組む人もあるし、そうなったらそれでもいいと僕は考える。中途半端な在り方でダラダラと生きるより潔いと僕は思うのである。とは言え、僕の考えを強要するつもりもないのであるが。
具合が悪いのであれば無理することはない。病気があるなら活動は制限した方がいいし、休養が必要ならしっかり休養を取る方がいい。僕自身は少々具合が悪くても自分にムチ打って活動する方がいい。40度以上の熱があっても深夜勤務をこなしたことも何度かある。今でも足の具合が悪くても仕事は休まない。効率や要領が悪くなってもいいけど、決して止まってはいけないというのが僕の信念だ。長距離走の経験からそう信じている。
長距離を走るコツは決して止まらないことである。ペースを落としてでも走り続けた方がいい。足を止めて、休止を挟んでしまうと、その直後は調子が良く感じられても、すぐに止まりたくなってくる。走っては止まりを繰り返していると、走っている区間がだんだん短くなってくるものだ。そうして最後には走れなくなってしまう。
上述の女性はそんなふうになっているかもしれない。一昨年まではちょくちょくシフトに入っていたものの、今ではまったく入っていない。もう走れない状態に陥っているのかもしれない。まあ、他人のことだ、余計な穿鑿はしないでおこう。
ところで、上述の女性の他にも自分はゼロか100かであるといったことを述べた人を僕は何人も知っている。クライアントの中にもそういうことを言う人が少なくない。問題は、その人がゼロか100かではなく、どうしてみんな同じような表現をするのだろうか、ということである。もっと他の言い回しをしても良さそうなものなのに、決まったように同じ表現をするのである。
結局、その表現自体が、その人のうちから生まれているのではなく、借り物だからなのだろう。どこかで拾ってきた表現であり、それを自分に当てはめて、自分を表現するために活用しているに過ぎないのだろう。それはそれでいいとしても、それは決して自己を表現していることにはならないのである。そこを混同してしまわないように注意する必要がある。それは、借り物の言い回しを使って、単に自分を「説明」しているだけにすぎない。
自分自身をそうして「説明」するということは、自分自身をモノ化していることに該当しているのではないか。対自存在であることを放棄して、即自的存在にある人の姿が僕には見えるようだ。あるいはこう言ってよければ、それは自己による自己の非人格化である。それを生み出してる背景として自己の空洞化あるいは空虚化があると僕は思う。自分自身が空虚なので、自己を表現するにも、自分の言葉で語ることができず、借り物の表現をしなければならなくなるのだと思う。それが、表現ではなく、「説明」として僕には映るのだろう。
また、心理学的知見が変な風に広まっていることも関係するだろう。人間の心的事象に対しての理論が、人間を説明する理論にすり替わっているなんてことがけっこうある。心理学を勉強した人ならそういうことはしないのだけれど、一般の人ほどそうしてしまう傾向が強いようだ。心理学の法則は物理学の法則とはまったく様相を異にするものなのであるが、そこは注意されないようだ。
現代人は(僕もその一人だけれど)、自己を語る言葉を持たなくなったなと思う。クライアントたちも、その周囲の人も含めて、彼らは自分を「説明」しているだけなのだ。それも借り物の表現を使って。自分を語れなくなるということの悲劇をどれだけの人が理解できているだろうか。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)