<#007-30>臨床日誌~自然的思考 

 

 思考が肯定的であるとか否定的であるとか、ポジティブであるとかネガティブであるとか、プラスであるとかマイナスであるとか、いまだにそんなことにこだわる人がいるので困ったものだ。 

 思考にはプラスもマイナスもないし、肯定も否定もない。このことはどこかで書いたかもしれないな。何かを肯定している時には、他の何かが否定されているのだ。同じく、何かを否定している時には他の何かが肯定されているのだ。それはちょうど、神経過程において一か所が興奮過程にある時はその他の神経が制止過程にはいるようなものだ。 

 思考にプラスとマイナスがあると仮定すれば、プラスとマイナスは入れ替わりながら進行するものであるかもしれない。神経過程の拮抗的二重支配のように、興奮過程と制止過程とが入れ替わりながら進行するのに似ていると思う。 

 

 ところで肯定と否定とが切り離せないだけでなく、否定を積極的に肯定していることも多い。つまり、自分はダメな人間だと否定的思考をしている人は、その思考をすることを積極的に肯定しているのである。思考内容と思考行為とを区別しないから、否定的思考がなぜ止められないのかという疑問に答えることができないのだと僕は思う。思考内容よりも、行為を変える方が得策であると僕は考える。 

 

 僕も臨床家のはしくれである。臨床家にとっては思考のプラス・マイナスとかよりも、思考の自然性ということを重視する。つまり、奇妙な思考をしていないかどうかの方が気になるわけだ。 

 もし、ある人が落ち込むような体験をしたとしよう。そういう体験をして、落ち込んだ思考をしたとしよう。この思考はネガティブなものになるかと思うが、文脈からかけ離れているわけではない。不幸な経験をして、不幸な考え方をしたとするなら、それは自然なことである。もし、不幸な体験をしたのに、能天気な思考をしているとするなら、それは不自然に見える。 

 一般の方々は思考の自然性という観点は持たれていないように思う。思考だけを取り上げるからおかしなことになるので、その思考を生み出した経験並びにそれに関与する感情体験などを踏まえて、一連の流れの中で思考を捉える必要があると僕は思う、その流れにおいて自然な思考であればそれでいいのである。 

 一部の人はネガティブな思考をしないようにしようとか、プラス思考をしようなどと躍起になられる。落ち込んで当然のような体験で、朗らかな思考をしているとすれば、僕には奇妙に見える。何かがその人の中でおかしくなっている、と僕だったら思うだろう。あまりにも不自然であり、自然性を放棄しているように見えてくる。 

 

 もう一つ言うと、「ねばならない」思考にも同じことが言える。 

 「ねばならない」が絶対に必要な場面もある。そういう時に「ねばならない」思考をすることは自然なことである。 

 「ねばならない」思考が不要な場面でそれをしてしまうとか、その思考が絶対に必要な場面でそれができないとか、そちらの方が問題が大きいと僕は思うのだ。 

 僕たちはどの人も義務とか責任とかを負っている。そういうところでは「ねばならない」思考が必要となる場面が出てくる。必要な場面で必要な思考ができるかどうかということも大切な観点である。「ねばならない」がその人を苦しめるからと言っても、その思考をすべて捨ててはいけないのである。 

 それと同じく、プラスの思考をすべき場面でプラス思考ができ、マイナス思考が求められる場面ではマイナス思考ができた方がいいということになる。実際、僕はそう考える。一方の思考が正しくて、他方の思考が間違っているなどと言って排斥してはいけないのである。それをする人は、思考の何かではなく、パーソナリティの硬直さを表していると思う。求められるのはパーソナリティの柔軟さである。 

 

 肝心な点は思考の自然性である。すでに述べたように、たとえネガティブな思考であっても、その思考が生まれる背景があって生まれているのであれば、自然な流れをそこに見ることができる。言い換えると、その思考は了解可能なものである。 

 自然な流れを無理矢理というか人為的に捻じ曲げようとするから苦しくなるのかもしれない。それは、喩えて言えば、悲しい時に泣くのは自然なことなのに、泣くことを禁止して、悲しい場面で大笑いしようと懸命になるようなものだ。こういうのは理解し難い行為であり、了解不能なものである。そして、こういう行為をしてしまう人は精神病と評価されてしまうのである。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

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