<#007-29>臨床日誌~正論を言う
ある夫婦(でなくても誰でもいいのだけれど)の話。
妻が感情的になっている。夫がそれに応じる。妻はさらに腹を立てて、「正論で返されるとムカつく」と返す。夫は何か正論めいたことを言ったのだろう。こういう場面はけっこう耳にする話である。
(正論とは)
正論とは何か。なかなか定義することも難しいのであるが、一般的な常識とか道徳、一般的な社会通念といった意味で今は捉えておこう。
正論は、聴衆に向かって語られる場合と個人に向けて語られる場合とでは意味合いが異なってくる。と言うのは、正論とは個人を抜きにして語られるものであるからだ。つまり、「人としてこういうことをしてはいけない」とか「常識的にこうするのが正しい」などといった形でなされるものである。個人を抜きにしなければ正論は成立しないのである。
(受け取り手の無化)
従って、一対一の関係において正論で返されるというのは、受け取り手にとっては自分が無視されるに等しい体験となる。自分の存在が無に帰されるかのような体験をするかもしれない。自分のことが無にされて、それで、一般論で返してくることになるので、冒頭の妻のような反応も理解できるというものだ。
(語り手の隠蔽と関係の変化)
また、正論は、それを受け取る個人を抜きにしてなされるだけではなく、それを語る個人も抜きにする。つまり、「私はこうするのがいいと思う」とか「僕だったらこうする」といった個人的な内容にならないわけである。正論を言う当人はそのつもりで言っていると信じているかもしれないけれど、実際の表現がそうなっていなかったりする。
従って、受け取り手にとっては、相手の人格を感じられなくなる。自分(受け取り手)抜きにして語られるだけでなく、相手は相手抜きで語ってくることになるから、その関係性はかなり冷酷なものとして受け取り手には体験されるかもしれない。お互いにパーソナルな関係であったところに、そのパーソナルな要素が完全喪失してしまうわけだ。関係性から親密さが失われていくことになるわけだ。
以上を踏まえると、相手が正論で返してきた瞬間、相手があたかも雲隠れしたように感じられ、受け取り手の方は非個性的な何かを受け取らざるを得なくなり、相手から突き放されるような体験となり、それだけでなく、受け取り手は自分の存在感とか話していることの意味とかを失う。つまり実在感を失うかのような体験をしてしまう。そうして、これまでの関係性がガラリと変貌してしまうことになる。相手と自分との間の空間、あるいは両者の間の世界が変貌することになる。こちら(受け取り手)は体験の連続性を失う。相手とも世界とも断絶し、孤立化する。冒頭の妻(僕はこの人を知っている)は、この孤立化させられることに対して抗議してるのかもしれない。
(誠実さの有無)
さて、正論で返してくるという人を僕も何人か知っている。正論で返されるとあまりいい気がしないのは確かだ。それでも、こいつの正論は流せるとか、許せる範囲のものだと思える人もあれば、こいつの正論だけは本当にムカつくレベルだという人もある。要するに、正論そのものに反応しているだけでなく、正論を言う相手に反応しているのだ。正論を言う相手によって喚起される感情が異なるわけだ。僕はそういう体験をする。一体、何が違うのだろう。
漠然とした言い方しかできないのだけれど、相手の誠実さにあると僕は思う。つまり、相手が正論を言ってきても、相手が僕のために何かを言おうとしてくれていると僕に感じられる(そこに相手の誠実さが感じられるということなのだが)限り、それはまだ許せるという気がする。
ムカつくレベルのものは、もっと違った意味合いのものを彼の正論から感じられるのである。僕のために言ってくれているのではなく、正論を言う語り手自身のために言っているかのような印象を受けることもある。例えば、正論を言うことで相手が僕よりも優越を感じているようであったり、その優越獲得のために僕が利用されているかのような感覚を覚えたりすることもある。そういう場合、まあ、ムカつくレベルである。
(言うものを持たない)
さて、正論を言うこととはそれに関して言うものを何も持っていないということの証だと僕は考えている。本当は何も言えないのだけれど、正論を言うことで何かを言った気になるのかもしれなくて、あるいはその場をなんとか乗り切ったとかやり過ごしたとか思えるのかもしれなくて、その場合、そこには正論を言う人の欺瞞があることになる。もちろん、当人が意識的にそうしているとは言えないのだけれど、どこか自分をごまかしているところが僕には感じられてしまうのだ。
(自己開示)
例えば、僕が何か話しかけて、相手が初っ端から正論めいた説教をしたとしよう。相手は僕の話に関して何も言うものを持っていないのだ。
そんなことをするよりは、「俺にはそんな難しいことは分からん」とか「そんな話をされても私は困るわ」などと言ってくれた方がいい。話し合いの途中で正論めいたことを言う場合でも、「それに関して僕は何を言っていいか分からなくなってきたよ」とか「私にはだんだん分からなってきたわ」などと言ってくれた方がいい。それならこちらも無理な話を持ちかけて悪かったなという気持ちになるし、お互いにこのことは忘れようってな気持ちにもなるものだ。
そんなふうに自己開示する人の方が、正論を言って切り抜ける人よりも、僕には魅力的に映るのだけれど、いかがなものだろうか。
(おいてきぼり感)
正論を言うこととは、自己欺瞞が言い過ぎであるとしても、どこか自己隠蔽的であると思う。自分の正体を隠す感じがするのだ。その場において、あたかも煙幕を張るかのような感じだ。自分自身を正論の背後に隠蔽するのだ。そして、正論を言う人は、その場の関係、「今、ここ」の関係から引き下がってしまうのだ。受け取り手は一人取り残されるような経験をすることもあるかもしれない。
正論を言って、そこで隠蔽がなされるわけだけれど、どうしてそいう正論めいたことが出てきたのかこちらが尋ねてみて、「だって、普通そうでしょう」などと返されたりすると、あたかも二重に隠蔽されたような感じを受けるのは僕だけだろうか。この時の「置いてきぼり」感はけっこう半端じゃなかったりするし、激しい脱力感に見舞われるのだけれど、それも僕だけだろうか。いずれにしても、こいつには何も言わんとことって気持になってしまう。
(疑似理性的)
正論を言う人とはどういう人であろうか。時には正論めいたことを言ってしまうこともあるだろうけれど、そうではなく、いつも正論めいたことを言って対応するような人もある。そういう人は理性的な人に見えるだろうか。確かに言われてみれば理性的であるかもしれないが、けっこう冷たい印象を相手に与えている人であるかもしれない。
また、その「理性的」は感情が希薄なところから出ているものであるかもしれない。つまり、感情が希薄化し、鈍麻しているのだけれど、それを表に出さないで、理性的であるふうに装っている(またはそのように見せかけているとか、そのように見える)ということである。
また、前述のように、正論を言う時、それに関して言うことを持っていないのであるとすれば、常に正論を言う人はその人の中に何も言うべきものを持っていないということになる。端的に言えば、その人は自分自身を体験せず、空虚であり、借り物の思想で自分を埋めなければならなくなっているのかもしれない。
(感情の隔離)
このように考えていくと、常に正論を言う人というのは、分裂気質というか、分裂病質というか、そういう傾向を伸ばしている人であるように思えてくる。もっとも、僕が会った人にそういう人が多かったというだけかもしれないのだけれど。
そして、もし、正論を言う人自身が正論に忠実に生きているとすれば、その人は自分の中に核となるものを持っていないのかもしれない。外部の正論に自分を適合させているだけであるかもしれない。だから、必ずしもこういう人が「正しい」生き方をしているとは断言できないと僕は考えている。
僕はそのように考えているので、正論を言って、常に正しいことを説いてきた人が、ある時、普段のその人からは信じられないような事件を起こしたりすることがあっても僕は驚かない。この正論は感情の隔離をもたらしてきた可能性があり、あるいは感情が隔離されているので正論が出ているかもしれず、それがある時、切り離された感情が反撃してきただけのことである。幸い、僕の知っている人には(僕の知っている範囲で)こういう人はいないのであるが、時折、ニュースなんかでこの種の人を見かける。
さて、今回の日誌であるが、そろそろ書いていて疲れてきたのでここまでにしよう。何ら結論めいたものが無いのかと憤慨される読者もおられるだろう。でも、下手に結論をつけると、それが正論と受け取られるかもしれないので、敢えて、結論めいたことは付けないでおこう。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)