<#007-28>臨床日誌~ギフテッドと早熟 

 

 普通の人にはなかなかできないことができる、そういう特殊な能力を持っている人のことを「ギフテッド」などと言うらしい。変なコトバが出てくるものだ。当人はそれを自分に与えられたものとして享受しているかどうかは疑わしいのに。当人の気持とか体験とかを抜きにしてこういう言葉が生まれるのはいかがなものかという気もするのである。 

 それはそれとして、それよりも、人はそれぞれ自分に与えられているものがあるのである。最初から与えられたものとして備わっているものがたくさんあるのである。僕にもそれがあり、これを読んでいるあなたにもそれがある。そういう意味では一人一人が「ギフテッド」になるわけで、特定の人だけ特別視して、それに特殊な用語を付けることには、僕はいささか不快な思いがするのである。 

 

 それはさておき、ギフテッドというのは「早熟」とは異なるものだと僕は考えている。ここを混同している人を見かけるので敢えて言おうと思う。早熟には特殊なところが何もないのである。 

 例えば、小学生の児童が大学の問題を解いたとしよう。これは早熟であってギフテッドではないのである。というのは、その問題は大学生なら普通に解ける(普通かどうかはべつとしても)ものであるからである。だからこの能力には特殊なものがなにもないということになるわけだ。 

 

 たしかラフマニノフだったと思う。子供のころ、音楽会で初めて聞いた交響曲を帰宅してからピアノで完全に再現したという。こういうのは特殊になってくる。 

 40分とか1時間くらいかかる交響曲を初めて聞いて、それをピアノで完全に再現するというのは、音楽をやっている人でもなかなかできないことである。ある程度記憶していても、ここはどうなっていたっけとか、メロディはこうだけどハーモニーがどうついていたっけとか、何かとあやふやなところも出てくると思う。なんとか再現できても、間違っていることだってある(つまり、本当は記憶が欠落しているのだけれど、アドリブでそこを埋めているのに、そのことに当人が気づいていない、などが起きている)だろう。 

 

 成熟・熟達すればできることを早い段階でできるというのは早熟である。成熟・熟達した人でもできないことをできるのがギフテッドである。簡単に言うとそういうことである。僕はそのように考えている。 

 そして、「20歳すぎればただの人」の喩えにもあるように、早熟はやがて他が追いつくことになることが多い。先頭集団から抜きん出てトップを独走していた走者が、やがて先頭集団に追いつかれてしまうようなものだ。 

 

 ちなみに晩熟の人もある。最初は先頭集団から遅れていたのに、最後には先頭集団に追いつくといった人である。 

 偉人の中にはこういうタイプの人も多い。子供時代は成績も最悪で、出来の悪い子供だったという例も多い(もちろんそうでない偉人も多い)ものである。ユングなんかもそうだったように僕は記憶している。その他、エジソンとかアインシュタイン(だったかな)などの科学者の中にもそういう例が見られる。 

 何事もそうであるが、人生の一時点だけで人は評価できないものである。 

 

 さて、早熟に話を戻そう。 

 ある子供は成績が非常に優秀であった。大した努力も勉強もせずに、学校の勉強ができて、成績も優秀であった。こういう子供は親からすれば自慢になるだろうとは思う。 

 この子はギフテッドではないかとも言われたことがあるそうだ。でも、僕からすればただの早熟なのである。人ができることをできているに過ぎないからである。成長すれば他の子も同じようにできることを、この子は早い段階でできているに過ぎないのである。 

 今、この子はどうなっているのか、20歳を迎えて、大学に行けず、社会的な場に出ることなく、引きこもり状態になり、精神病の診断をもらっている。この子の不幸は早熟にある。そのために子供時代をきちんと生きることができなかったと思われるからである。 

 母親はこの子の変貌ぶりを嘆く。あれだけ優秀な子がこんな姿になるなんて、ということだ。子が優秀という幻想を母親が捨てきれないのである。あれだけ他の子供たちと違っていた我が子が他の子たちと同じになるというのは、一方では母親にとって好ましいことであるかもしれないのだけれど、この母親はそれを受け入れることができないのである。子は早熟なだけで特別でもなんでもなかったのだ。母親はその現実を受け入れることができないのである。 

 最近、この子は勉強を始めたそうである。いい兆しである。コツコツ学んで、物事を自分のものにしていけばいい。普通の人がしてきたような努力をしていけたらいいと僕は思う。かつての能力や才能などの幻想にすがりつくのは止めた方がよい。普通の人がしている普通の努力をするだけでいいのであって、それは何も敗北ではないのであり、なんら致命的なことではないのだ。 

 

 早熟な子の大部分は平均的な子と等しくなってくる。晩熟の子も平均的な子に追いつくことも多い。 

 また、ギフテッドと言えども、与えられた能力を本当に生かしている人は少ないように思う。その能力を生かす場がなかったりするからである。500年前の1月1日が何曜日であったかを瞬時に答えることができたとしても、その能力を生かす場面がないのである。だから彼らも普通の人と変わらないものである。 

 早熟も晩熟もギフテッドも、その人の個性に過ぎないものであり、周囲の人もそこに特殊な意味づけをするのは控えた方が良さそうに僕は思うのだ。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

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