<#007-26>臨床日誌~共感覚論(4)
共感覚あるいは感覚諸器官の協働ということをもう一度考えてみよう。ここで何が起きているのかということに注目したいと思う。
例えば、何かを食べて、何かの光景なり図形なりが見えたとしよう。こういうのは共感覚者の体験であるが、僕たちも経験する範囲のものでもある。マドレーヌを口に入れた瞬間過去のあらゆる光景が蘇ってきたという『失われた時を求めて』のような体験を僕たちもしないわけではない。そこまで極端な形でなくても、旅先で食べた料理を再び食べると、その旅の情景を思い出したりすることもあるだろう。
この時、その情景は現実に見えているものではない。頭の中で見えているものである。言い換えれば、味覚を通して、その情景を創造しているのである。
このように仮定すると、共感覚並びに感覚が協働するとは、一つの感覚刺激からその他の感覚反応や印象を創造しているということになる。簡潔に言えば、共感覚とはその他の感覚反応を創造ないしは産出しているということである。
ここで創造性もしくは産出性という概念を持ち出そう。人は感覚を創造するのである。共感覚は、そうでない人とは、違ったものを創造しているのである。だから芸術家の中には共感覚のように思われる人もある。
ある人は味覚から視覚を創造するし、視覚から身体感覚を創造する人もあるだろうし、聴覚刺激から視覚反応を創造したり、さまざまであるだろう。いずれにしても、単に知覚しているだけでなく、それとは違った反応を同時に創造しているわけである。
ところがである。共感覚を持つ人は自分のそれを創造性とは見做していないことが多いようだ。なんとなく勿体ない話にも思えてくる。それどころか、あまり創造性という観念をお持ちでない方もいらっしゃるようだ。
僕が最近出会った共感覚者は、よく次のような話をされた。休息してエネルギーを蓄えても、あっちにエネルギーを取られ、こっちにエネルギーを割かれ、他に何をしようにもそれをするだけのエネルギーがない、と。なんとなく、これだけ聴くと納得できる話なんだけれど、ここではエネルギーは蓄えるか消費するかしかないことになる。エネルギーがエネルギーを産出するという観念は微塵も見られないのである。
つまり、燃料を消費して発電機で電気を作り、作った電気を使用してより大きな作業をするということを人間はやるわけである。あるいは、お金がお金を作るということもある。お金は稼ぐか使うか貯金するかだけではなく、投資したりしてお金を増やすという手段もあるわけだ。エネルギーを消費することでエネルギーを創造すること、お金を投資することでお金を創造すること、こういう活動を人間はやるのである。それと同じである。
どうもこの人にはそういう発想がないようであった。そういう観念がないのかもしれない。だから共感覚も本当は違った感覚反応を創造しているのだというふうには思えなかったのかもしれない。
ところで誤解のないようにしたい。僕のお会いした共感覚の人たちは、創造性とか産出性といった概念をお持ちでないように思われるのであるが、このことは彼らが創造性の欠如した人であるということを意味するわけではないのである。
むしろ、彼らは彼らで創造的な活動をされているのである。前述の人は造形をやり、その他の人は絵やイラストを描くという人もある。実際に作品を見せてくれた人もあるが、僕の見る限り、なかなか立派なものをお作りになられているのである。創造性をかなり発揮されているように僕には見えるのだ。
ところが、彼らはそれを創造的な営みであるというふうには見ていないようである。共感覚者は人とは違った感性を持っているかもしれないのに、彼らはそれを自覚することなく、且つその感性を発揮しようという気持ちが乏しいようであり、どうにも勿体ない思いを僕はするのである。
以上が僕の結論である。共感覚とは創造性なのだ。その傾向の強い人は、その人なりの不便さはあるかもしれないけれど、そうでない人よりも創造的であるかもしれないし、少なくとも独特の感性を持っているかもしれない。それを生かすことができれば、共感覚はその人にとって一つの「武器」になるかもしれない。「治療」という方向もあるかもしれないけれど、それを生かす方向を目指すのもいいことではないかと僕は思う次第である。
さて、ここまで書いてきて、僕は一つ抜かしたことがあったのに気づいた。補足として書き足しておこうと思う。
例えば聴覚を例にしよう。音刺激は耳から入ることになる。それは電気信号となって、聴覚神経系を伝達していって、脳の聴覚野に達する。そうすると僕たちはその音が聞こえたという体験をするわけだ。
視覚の場合も同様である。視覚刺激は目から入ることになる。それは電気信号となって、視覚神経系を伝達していって、脳の視覚野に達する。そうすると僕たちはそれが見えたという体験をするわけだ。
この時、変換される電気信号の性質は同じものであるという。従って、聴覚神経系を伝達している電気信号が漏洩して視覚神経系にも入ったとしたら、僕たちは音を見るという体験をするだろうと思う。
新生児、乳児は、それぞれの神経系統が十分に独立していないかもしれず、また、脳のそれぞれの領域が分化していないかもしれない。そうであるとすれば、新生児、乳児はすべて共感覚的世界に生きているのかもしれないと僕は思うわけだ。共感覚者というのは、どこか未分化な部分が残った人たちではないかと思うわけである。
逆に、もし、聴覚神経系統の一部を視覚神経系統とつなぐことができたとしたら、僕たちは人為的に共感覚を作り出すことも可能であるかもしれない。もっとも、それが当人にとって望ましいことであるかどうかは分からないけれど。
以上、共感覚について僕の思うところを述べた。あくまでも僕の個人的見解に過ぎないものである。そういうものとして読んでいただければと願います。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)