<#007-25>臨床日誌~共感覚論(3)
感覚刺激にはそれに対応する感覚受容器がある。視覚刺激は目、聴覚刺激は耳、味覚刺激は舌、臭覚刺激は鼻というように、刺激の種類に応じて機能する感覚受容器がある。しかし、対応する感覚受容器だけで感覚を受け取っているわけではなく、その他の感覚器官も協働するものである。そのように考えると、共感覚という現象はなんら不思議なものではなく、むしろ、僕たちは皆多かれ少なかれ共感覚的であるということもできるのではないだろうか。
もし、一つのメインとなる感覚器官だけを用いるのであれば、それは単に知覚したというだけの体験である。でも、感覚器官が協働することで一つの知覚体験が豊かになるのではないかと僕は思う。
例えば僕が一枚の風景画の前に立っているとする。その絵を僕は目で見る。しかし、その情景の音、風の音や波の音も聞こえるようであればどうであろうか。その情景の温度を、温かいとか寒いとか感じるとすればどうであろうか。匂いまで感じられたらどうであろうか。それはただその絵を見ているという以上の体験と言えないだろうか。
音楽でもそうだ。ある曲を聴くのは耳である。しかし、音を肌で感じられるとどうだろうか。腹の底に響いてくるような音を感じたらどうだろうか。おそらく、ただ聴くという以上の音楽体験を僕はしていることになる。
感覚が協働した方が体験が豊かになるとはそういうことだ。そういう体験をする人は人生もまた豊かになるのではないだろうか。
少しだけ先走りしてしまうことを許してもらいたいのであるが、感覚が協働する方が体験が豊かになると僕は考えているわけだけれど、ここには創造がある。外的刺激を受動的に知覚するだけでなく、それとは別の知覚を創造していることになるからだ。だから芸術家の中には共感覚的な人が多いと僕は思っている。
例えば、ランボーが『地獄の季節』の中で、「俺は母音の色を発明した。Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑」と書いているが、こういうのは共感覚的体験がないと出てこない発想だと僕は思うのだ。
共感覚とは、知覚の創造であるということである。これは後にまた取り上げることになると思う。
それぞれの感覚器官は協働するものである。確かにメインになる感覚受容器というものはあるとしても、その他の感覚器官も一緒に働くものである。もし、その他の感覚器官が働いているようにみえないとすれば、メインのものに比較してあまり大きく働いていないからかもしれないし、あるいは意識されていないだけであるかもしれない。いずれにしても、刺激と感覚受容器が一対一で対応するわけではないと仮定しておこう。
人はみな共感覚的である。では、共感覚というものは治療しなくてもいいのかという疑問が生まれると思う。僕は特に治療は必要ないと感じている。
僕がお会いした数人の共感覚者たちは、その共感覚そのもので苦悩しているというわけではなかった。そのために普通とはちょっと違うといった「異常意識」を持たれていた方もおられたが、それとて当人の中ではそんなに大きな問題とはなっていなかったように思う。もっとも、本人がどう体験しているかまでは分からないので何とも言えないのであるが。
共感覚そのものは当人には馴染みになっているようだ。自我親和的になっているということであり、あまりそれ自体はおかしいなどとは思わないようである。人と比較した時に少し問題となるようだ。とは言え、それで日常生活に支障が来たすというわけでもないようである。
従って、日常生活の上で問題にならないのであれば、特に治療する必要もないのである。その共感覚は当人の個性として見られることもあるように思うので、それをなくそうとか消そうとかいう発想は控えた方がいいのかもしれない。
個性として見られるというのは、周囲の人から独特の感性であるとか、独特な捉え方とか表現をする人というふうに見られることが多いのではないかということである。
治療するということであれば、どんな方法がいいか。それぞれの感覚器官が分化していないということが考えられるので、一旦、この分化を進めるといいのかもしれない。例えば、味覚を働かせている時には味覚に全神経を集中させるとか、そうして主となる感覚器官に意識を集中させて、他の感覚器官の侵入を防ぐようにするといいのかもしれない。
いちいち「かもしれない」などと付けているのは、あくまでも理論上の話であるからである。実際に共感覚を治したいという人とはお会いしたことがないので、もし、治療ということになればそういうアプローチを取るだろうということである。
さて、共感覚ということについて僕なりの見解を述べてきたわけであるが、実はここまでが前置きで、本当に取り上げたいことはこれからである。しかし、次に移る前にここまでのことをまとめておこう。
人間は全体的から分化して、そこから統一的な方向へと発達していく。感覚諸器官もそのような発達を辿るであろうと仮定すると、最初はあらゆる感覚が一つになっていたということになる。そこから諸感覚器官が分化していくことによって、視覚や聴覚、味覚、臭覚などの感覚器官が個別化される。共感覚はこの分化、個別化がどこか不十分なところがあるのではないかという仮定を立てた。
しかし、どの人も、刺激と感覚受容器とは一対一で対応するようなものではなく、複数の感覚器官が協働するものであるということを述べた。そこから、どの人も共感覚的であるという仮説を立てた。そして、感覚が協働することによって体験が豊かになるであろうということも仮定した。
最後に治療ということに関しても述べた。個人的には当人の生活に支障がなければいじらない方がいいというのが僕の基本的見解である。特に困らないのであれば、治さなくていいということである。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)