<#007-23>臨床日誌~共感覚論(1)
共感覚とは、主要感覚器官が複数ある、または複数の感覚器官が同時に働くというものである。例えば何かを味わうとしよう。そこで甘いとか酸っぱいとかいうことを人は言うのであるが、共感覚では「この味は四角い」などと言うわけである。この場合、本来なら味覚が主要感覚器官になるのであるが、視覚がそれと同等の主要性を有していることになるわけだ。
共感覚を有している人を共感覚者と呼ぶことにするが、こういう人は意外と多い。もちろん程度の差もある。それに、自分にそういう傾向があることを自覚している人もあればそうでない人もある。いずれにしても、共感覚というものは珍しくもなんともないことなのである。
僕自身はそのように考えている。共感覚について、僕はそれほど詳しいわけでもないし、それを専門的に勉強したというわけでもないので、このテーマについて述べることもできない。でも、僕の一個人の見解として読んでいただければそれでいいと思う。
まず、各種の感覚器官というものは、各々が単独に働くわけではなく、常に複数の感覚器官が協働しているのである。その際に、メインになる感覚器官があり、その他はサブとなる。共感覚では、このサブとなる感覚器官が主要感覚器官に割り込んでくるというわけである。
次に、おそらくだけれど、人間はすべて最初は共感覚であったと僕は信じている。従って、共感覚の人がいるのではなく、共感覚が残っている人がいるのである。
この二点についてまずは述べよう。後者から始めよう。
人間の発達を考える際に、未分化(全体的)から分化、分化から統一、そういう流れを押さえておくと便利である。
赤ちゃんを見よう。赤ちゃんがご機嫌な時に「いないいないバア」でもしてあげると、赤ちゃんは非常に喜ぶ。この時、赤ちゃんは、顔だけでなく、手足もバタバタと動かし、体もよじったりして、その喜びを表す。全身で喜びを表現しているように見えるのだけれど、それとは少し違って、もしろ感情の表出に全身が関与してしまうのである。感情表出と身体各部が分化されていないので、全体的な反応になるというわけだ。
ここから感情と身体行動とが分化していく。そうすると、喜びを体験しても、顔の表情や少しばかりのしぐさでそれを表現するようになる。全身が関与することがなくなるわけだ。分化するほどそれぞれの機能が分かれていくわけである。
分化から統一というのは、喜びを体験した時に、その感情表出を小さくすることもできれば、全身を使って表現することも可能になるということである。つまり、意識的にコントロールできるようになるというわけだ。
この過程は、例えば最初は一つの細胞であったものが、分裂して数が増えていき、一つの器官を形成し、さらに細胞が分裂していて他の器官も形成し、そして各諸器官が独立して働くと同時に全体的に協働するようになる過程と喩えることもできようか。一つの器官が過剰に働く時は、その他の器官は鎮静したり、あるいはその過剰な部分を下げるように働いたりする。一つ一つは独立して働くとともに、全体のバランスや統一性を保ったりする。発達にはそうした流れを見て取ることができるわけだ。
今、感情と身体表出というつながりを見たが、やはりこれが大きくなってもつながったままという人がいる。例えば、怒りを体験すると嘔吐する(これは乳幼児にはよく見られる)人であるとか、あるいは便秘になるとかいう人もある。感情は感情として体験されず、身体と連合した形で体験されていると言えるだろうか。
感情には身体的な反応があるが、それはそのまま身体表出にはならないという点に注意しておこう。緊張すると心臓の鼓動が早くなる。この心拍数の増加は緊張という感情に対する身体的反応である。発汗などを伴うこともある。緊張して落ち着けず、ソワソワするということはあるだろう。このように、ある程度、どの人にも共通して見られる身体表出もある。そして、この人が緊張しても取り乱して泣きわめいたりしないとすれば、感情・身体反応と行動とが分化しているということになる。そうした分化ができているので、この人は自己の統一が保つことができているということである。
そのような場面で、その人は不安耐性が強いとか、自我が強いとか、メンタルが強いとか、さまざまな言い方がなされているのだけれど、より具体的に言えば、その人の分化、自我の分化とその統合とがよりなされているということである。未分化なほど脆弱となり、分化と統合が進んでいるほど強いということが言えるわけである。
以上のような知見を踏まえて、人間の感覚もそのように発達するのではないかと僕は思っている。最初は一つの知覚対象に対してあらゆる感覚器官が一斉に働くのではないかと思う。それは共感覚の体験と同等ではないかと思うわけだ。やがて、それぞれの感覚器官が分化していき、統合的に働くようになるのではないかと、そのように思うわけだ。
思うっていうのは、結局のところ、乳幼児の感覚器官がどの程度独立しているかということがなかなか測定できないからである。当然のことながら、乳幼児は自分の感覚体験を話してくれるわけではないので、実際のところどうなっているのかというのは推測の域を出ないのだ。
しかし、それを一つの仮説として捉えておくと、共感覚という現象は、それ自体はなんら異常なことでもないということが言えるのだ。その共感覚がその後も残っていることが問題となるわけだけれど、それが少々残っているくらいはあまり問題になることはないように僕は思う。
さて、次に、僕たちの感覚器官というものは単独で働くのではなく、それぞれが協働するということに話を移したいのだけれど、分量の関係で次項に引き継ごうと思う。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)