<#007-20>臨床日誌~「思春期はいつ終わるの?」
今日のクライアント、この人は母親であるが、19歳の娘さんから「思春期っていつ終わるの?」と質問されたそうである。母親としては答えるのに難しい質問だろう。
こういう時、母親はある程度自分に素直である方がいいと僕は思っている。だから、「そんな難しいことお母さんには分からないわ」と伝えても構わないのである。
母親のこの応答に対して、娘さんが怒るかもしれない。「お母さんは私の疑問に答えてくれない、私に向き合ってくれない」などと言って激怒するかもしれない。もし、そうであるとすれば、この娘さんは思春期はおろか児童期の真っただ中にあるようなものだ。
少し共感的な応答を試みるとすれば、例えば、「まだ自分が思春期にいるような気がするのね」と答えることもできるだろう。それよりも少し否定的な要素が加わるが、「自分が人よりも遅れているような気がするのね」と応答することもできるだろう。でも、共感的応答も時と場合によっては良し悪しがあるものだと思う。娘さんはさらにこの形而上学的な問いに没頭するようになるかもしれない。
少し励ましの要素を含めるなら、次のように応答することもできるだろう。「お母さんはあなたが少しずつでも成長しているのが分かっているわ。今、思春期の真っただ中にあるような気持ちがしても、気にせず自分のペースで成長していけばいいのよ」などと。母親は治療者になる必要はないので、こうした励ましをしても構わないのである。
ところで、この娘さんの質問には非常に重要な側面がある。それは、人はどのようにして自分の人生上の区分をつけるのか、というテーマである。自分の人生において、一つの時代が終わったということを、どのようにして分かるか、あるいはどのようにして実感するのかといったテーマである。
取り敢えず、この娘さんの質問に応じておこう。思春期のことを心理学では青年期という言い方をするので、青年期と言い直させてもらおう。青年期は第二次性徴とともに始まると言われ、自我同一性の確立をもって終わるというのが定説である。
しかし、この区分には不十分なところがある。青年期の開始は明確に規定されているのに、その終了は非常に漠然としているということである。一体、何をもって自己同一性が確立できたと評価してよいのだろうか。そこが非常に曖昧である。
この娘さんの質問に対して、あくまで純粋に字義通りにその質問に答えるとすれば、それしか言えないということになる。おそらく、こんな答えは娘さんが求めているものとは異なっているだろうと思う。そこで、この質問に含まれているテーマの方に移ろう。
僕の考えはこうだ。人生上の時期区分は、一つの時期が終わってからでないと、そして次の時期に移行してからでないと、前の時期が終わったということが評価できないのである。従って、その時期を通過してようやくその時期が終わったと評価できるということであり、現在進行形でそれが分かるということはないだろうということである。
自分にとって青年期が過ぎたと分かるのは、成人期に入って以後のことである。それなら、青年期から成人期(その他の時期においても同様であるが)への移行は成り行き任せにしていいのか、と言われそうであるが、もちろんそういうことを言うつもりはない。
青年期から成人期へ、一つの時期から次の時期への移行ということは非常に複雑な過程を経るのが常であるが、二つの要素をここでは取り上げておこう。一つは成人期へ踏み出すことであり、もう一つは青年期を放棄することである。
前者から述べよう。成人期へ踏み出すためには青年期をしっかり生きていることが必要である。ある意味では、成人期のための準備を青年期でしているのである。もちろん、これは一つの観点であって、青年期が成人期の準備段階として存在してもいけないのである。その時代でしか生きられない生を生きなければならないと僕は思う。それが次の段階の準備にもなるのである。
その時代を十分に生きることができれば、その時代を終えてもいいという気持ちになるだろう。その時代を終えてもいいと思えるから次の時代に突入したいという気持ちも生まれるのかもしれない。青年期を放棄するとは、青年期を終えてもいいと思えることである。もうその時代を手放してもいいと思えることである。
結局、この二つの要素は相互に関連しているのであるが、肝心なのは、その時代をしっかり生きることであり、その時代が課してくる発達課題に取り組んでおくことなのである。
では、どの人もこういう過程を経ているのかと言うと、必ずしもそうではないと僕は思っている。青年期心性をそのまま持ち続けているという人もあるからである。それが良いか悪いかということは今は取り上げないけれど、一つの時代の心性を後々まで持ち続けるということが人には生じるという点だけ押さえておこう。
青年期から成人期への移行を、恐らく、多くの人はあまりそうと意識しないまま通過したのではないかと思う。それはそれでいいのであるが、時に意図的に何かがなされることもある。青年は自分の将来に不安を抱えたりするだろうし、時には将来の夢を友達と語り合ったりすることもあるだろう。そうした感情や行為はその青年が移行段階にあることを表しているように僕は思う。
さて、青年期から成人期へ移行するためには、成人期に踏み出すことと青年期を放棄することが重要であるということは分かった、でもなぜ人にそれができるのかに答えていないではないかという指摘をされそうである。本当は前段落で本項を終えようと思っていたのだけれど、指摘される前に述べておこう。
心理学には非常に便利な言葉がある。人間がなぜ一つの発達段階から次の段階へと踏み出せるのかと問われれば、それは人には成長欲求とか成長動機があるからであると、そう答えればいいのである。質問した方もそう答えられると「そういうものか」と納得してくれたりするのである。
ところが、さらに食い下がってくる人もある。それでは説明になっていないなどとお怒りになられる方々もいらっしゃるのである。それ以上に説明しようとすればそれも可能であるが、説明が細部にわたるほど個人差が生まれるということも了承していただきたいと思う。
例えば、次のようなことである。青年期(高校生くらいを想定しましょうか)は、時に楽しく、充実した生活を送ることもでき、青年ということで守られているところもある。その代わり、その時代は非常に不安定な時期でもある。もう子供とは言えない年齢なのだけれど、大人とも見なされないからである。彼らは自由でもあり制限もされているのである。この状況はやがて生きにくくなると僕は思う。
つまり、社会に出て自分の持てる能力や技能を試す機会もなく、一人前ともみなされず、時と場合によって子供として扱われたり子供ではないと扱われたりする。自分を試したくても制限が加わるのである。飛び出したいエネルギーはあっても、行き先が定まらなかったりもする。何者かになろうと欲しても何者になっていいのか不明であったりする。何かをしたいが何をしていいのか、何ができるのかも分からなかったりする。楽しかったり安全であったり、充実することもあるけれど、結局、こうした自分の状況がイヤに思えてくるのである。こんな状況に嫌気がさしてくるのである。そうなると、この人は次の段階へと踏み出すようになるだろう。青年期を終えてもいいと思えることだろうと思う。
もちろん人によって体験することはさまざまである。上記は一つの例のようなものとして読んで欲しい。僕もそれに近い体験をしてきたように思う。一つの時代は、その時代の生き方を形成するのだけれど、やがてその生き方が窮屈になってくるのだ。そうなるとこの生き方を終えたいとか、あるいは変えたいとか、そういう気持ちが生まれてくる。その気持ちが次の段階へと踏み出させてくれるのだ。ある意味、自己嫌悪が後押ししてくれるのである。自己嫌悪のような否定的な感情も僕は「悪」だとは思わない。むしろ、否定的な感情が人を動かすこともけっこうあると思うのだ。
さて、長々と綴ってしまったな。内容もまとまらないまま書き始めて、ダラダラとした展開になったような気もする。結局、僕には確実なことは言えないということが証明されただけである。(2021年10月)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)