<#007-17>臨床日誌:上から目線
ひきこもりの傾向の子供を持つ母親がひきこもりのセミナーみたいなのに参加した。それなりに勉強になったそうなので、それはそれで良いことである。
そのセミナーで、講師の先生が目線のことを話したそうだ。要は上から目線を避けましょうということなのだけれど、何が上から目線で何がそうではないのかというと、僕にはどうもよく分からない。
「これこれのことをしよう」と誘いかけるのは上から目線になるらしい。「これこれを一緒にしよう」という誘いかけはそうではないらしい。
このような誘いかけのできる人と言えば、もう家族しかいないように思う。家族だけがそういう誘いかけが可能である。外部の人間は、よほどその子と親しい人でない限り、そういう誘いかけは難しいだろうと思う。
あの母親は上から目線にならないように子供に接しているだろうか。どちらでもいいことだ。どんな言い方をしても上から目線になり得るのだから、あまり気にしない方がいいかもしれない。
つまり、彼らが上から目線でモノを言われたとか訴える時、それは目線や立ち位置の上下関係を指しているとは限らないのである。彼らにとって、何か不愉快なこと、無理なこと、圧力と感じられること、期待から外れることなどを言われた時に、自分の体験を彼らはそのように表現するかもしれないのである。
つまり、「上から目線で言われた」という表現は、字義通りの場合もあれば、もっと象徴的比喩的な意味合いの場合もあるということである。講師の先生は前者の意味合いで捉えているように僕には思えるのだけれど、後者のような場合もあり得るということを親は知っておいてもいいのではないかと思う。
肝心な点は、上から目線で言われたなどと批判されようと、親は動じてはいけないのである。親がどれだけ上から目線にならないように気を付けていたとしても、そのように受け取られることがあり得るのであり、そう受け取られたとしても必ずしも親の落ち度とか失敗とも言えないのである。子供の方でも自分の体験をそのようにしか表現できないのかもしれないのである。
また、変な話に聞こえるかもしれないが、こちらがどれだけ目線を下げても、相手がさらに下を行くということも起こり得るのである。親が子に対等になろうとしても、子が親と対等になることを拒否することだってあり得るのである。講師の先生が前提として持っているのは、子供の立ち位置が不動であるということである。その場合のみその先生の言っていることが正しいということになる。
上から目線というのは、字義通り解釈しても象徴的に解釈しても、そこにはある種の距離があるということである。低い自分と高い相手との間の距離である。この距離は、広いと苦しいかもしれないけれど、近すぎても苦しいかもしれない。後者の場合、近づいて来られたら離れなければならなくなる、距離を置かなければならなくなる。上から目線で言われたという批評は、子が距離を置こうとする試みという意味だってあるかもしれない。
従って、こちらが目線を下げたのに、それでも上から目線と言われたということであれば、対等になってしまうことを子が恐れている場合もあり、この子が距離を作り出しているということも考えられるわけである。
必要なことは、上から目線で言うかどうかということではなく、子供との適切な距離感を模索することである。これは子供の方に合わせなければならない。子供が脅威を感じない程度の距離感を、子供の様子を見ながら試行錯誤を繰り返し、親が体得していくことが重要であると僕は考えている。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)