#005-4>病の二相(3)~信じていること、分かっていること 

 

(信じていることと分かっていること) 

 私は一つ話を飛ばしてしまうところでした。「治らない人」の中には「精神病は治らない」という神話を信じている人もありますし、「自分は治る」とか「治してもらえる」と信じている人もあります。では、「治る人」はどうなのでしょう。 

 実は「治る人」からはあまりそれに関することを聞く機会がありません。彼らはあまりそういう神話に囚われていないのかもしれません。最終的にある程度の改善が見られた一人の男性クライアントは最初の面接の際に次のような話をしました。 

 彼は私の所へ来る前にいろんな機関を検索していたのでした。カウンセラーから精神科医、心療内科までさまざまな機関を検索した上で私の所へ来たと言うのです。このサイトのどこかを読んで、私の考えを聞きたいと彼は思ったそうでした。 

 彼のその話を聞くと、うちでなければならないという必然性はあまり感じられないので、他の所でも良かったのではないですかなどと少し意地悪な質問をしてみました。彼はその通りだと答えます。治療機関がこれだけあるのだからどこで受けても同じ(治る)だろうと彼は述べます。私も思わず、「そうそう、そうなんですよ」と言いそうになりました。 

 彼の言っていることは、要するに、同じようなクリニックなりカウンセリングルームなりがこれだけあって、どことも同じようなことをしているだろうから、どこで受けても治るだろうという意味であるようでした。彼はなかなか楽観的な男性でありましたが、ここには一つ大事な観点が含まれていると思います。それは次のように述べることができると思います。 

 「治らない人」が治るとか治らないとかを「信じている」のに対して、「治る人」は治るということが「分かっている」のです。私はそのように受け取っています。一方は信じており、他方は分かっている、この違いは非常に大きいものであります。 

 あることが起きると信じているということは、その人の中ではそれが起きる確率がかなり低いということを連想させます。あることが起きると分かっているということは、その人の中ではそれが起きる確率がかなり高いことが窺われます。 

 従って、治ると信じていようと治らないと信じていようと、信じている人たちにおいては、治らないということが自然な結果であり、治るということはかなり特殊な結果であるということになると思うのです。「治らない人」にとっては、「治る」ということの方が稀有なことであり、こう言ってよければ、「異常」なことなのです。 

 一方、「治る人」にとっては、「治る」ということが通常のことであり、「治らない」ということの方が特殊な事態であることになるのです。 

 このように考えると、「治らない人」にはある種の筋が通っていることを感じさせます。つまり、「治らない人」にとって、「治る」ということが特殊なことであり、異常なことであるとすれば、治らないということが正常な事態であるということになります。彼らは治らないことで自己の正常を感じられるのかもしれません。あるいは、「治らない」ということが彼らの信念と一致することになるのではないかと思う次第であります。 

 上記のような話は不思議に聞こえるかもしれません。「治らない人」は治療機関をいくつも経ていることが多く、治療を中断したりすることもよく見かけるのであります。そのようなケースで私が不思議に思うのは、以前の治療の失敗に彼らはさほどダメージを受けているように見えないことがある点です。治ると信じて受けた治療なのに、それが治らないまま中断してしまったとしても、彼らはそのことを苦慮しないように見受けられるのです。なぜ、その中断が彼らには深刻でないのか、もちろんその理由はさまざまあるとしても、もしかするとその中断は彼らの信念とさほどかけ離れていないという可能性もあるように私には思えてくる時があります。その人の中で筋が通っていて矛盾が無いのでそこに違和感が生じないのかもしれないと思うわけであります。 

 

(病を自己の一部に限定できること) 

 どこで受けても治ることが分かっているという上述の楽観的な男性に話を戻しますが、彼は彼で深刻な精神的症状を抱えていたのでした。その深刻な症状を抱えているのも彼であり、治ることが分かっているという楽観性も彼であります。なぜ彼にはこのようなことができるのでしょうか。私の思うところでは、深刻な症状を抱えているのは彼の一部であり、楽観的な傾向は彼の他の一部であるということです。両者は決して解離しているわけではなくて、彼の中でまとまっているのです。彼の一部は病んでおり、他の一部は楽観的であり、どちらも彼の全体の中で一つの地位を占めており、それでいて全体としてまとまりとかバランスを保つことができていると思うのです。 

 こう言ってよければ、彼は病を自己の一部に限定できているということになります。病をその一部に限定することで、その他の領域がその病に影響されたり汚染されたりすることを防いでいると私は考えています。これは彼の「自我の強さ」ということになるでしょうか、とにかくそのように自我は機能していると私は捉えています。 

 「治らない人」の場合、つまり治るとか治らないとかと信じている人ということでありますが、病というものがその人の意識や人格の大部分を占めてしまっているという印象を受けます。その深刻なものが大部分を占めているので、「信仰」せざるを得ないでしょうし、信じるしかないということであれば、楽観的になることも難しいのかもしれません。 

 そして、病というものがその人の心の大部分を占めてしまうとすれば、その人にとってその病はそれだけ重大な出来事になってくるでしょう。それは片時も意識から離れることなく、常に自分にまとわりついてくる厄介な何かになっていくことでしょう。それはより強大で強力なものに感じられ、自分の力が到底及ばないものになっていくでしょう。要するに、それは私よりも強い何かとしてその人を独占してしまうことでしょう。そうなると、それが「治る」ということはなかなか信じられなくなるのも無理はないかもしれません。さまざまな事情もあるでしょうが、「治らない人」は病を自分の一部に限定することが上手くできず、病が自分の全体と化し、自分を病と同一視してしまう傾向が強いと私は思います。 

 「私の病」と「病の私」という二相も、病が自己の一部に限定されている人にとっては理解に困難はないであろうと思われます。これを理解するのが困難であるというのは、病か私かのどちらか一方しかないためであります。 

 「治らない人」たちは、「私の病」という観念は理解できても、「病の私」というものがあまりよく分からないようであり、両者は同じではないか、何が違うのかといった疑問を呈されることもあります。彼らが理解に苦しむのは「病の私」の方であります。 

 「病の私」とは、「病を抱えている私」という意味でありますので、このことが理解できるためには病と私自身とが分離して認識乃至は体験されていなければなりません。そして、この分離は、それが私の一部であるという形で解消されることになります。最初の分離がなされていないということであれば、病と私自身とは同一であるということ、そのように体験されていることが窺われるのであります。従って、それは自分自身が病と同一視されているということになるわけであります。私自身と病とは完全に一致している状態として自己が体験されていることになるわけであります。 

 さて、私たちは病が自己の一部であるということをもう一度確認しておきましょう。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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