<#005-25>原因探求の陥穽~生きる意志の快復 

 

(危険と恐怖の低減) 

 本章は「治る人」と「治らない人」とが取り組んでいることの違いを述べているのですが、原因探求という行為に対しても両者は違った態度を採るようになっていくと私は考えています。既に述べたように、「治る人」は原因探求から外れ、違った方向へと踏み出していくのに対して、「治らない人」は原因探求に留まり続けるということが論旨となっています。 

 このことはシチュエーションを変えてみると説明しやすいのであります。地震を例にしましょう。なぜ地震が発生するのか、その原因やメカニズムを知っているよりも、地震が来た時にどういうことをすれば助かる可能性が高まるかを知っている方がはるかに有益であります。同じように、過去に経験した地震がなぜ起きたかを学ぶよりも、どのようにして自分があの地震から助かったのかを学んでおく方が有益であります。 

 この有益さには二つの次元を仮定することができます。一つは危険の低減であります。地震が来た時に、どいうことをすれば危険が最小限に抑えられるかという知に関する有益さであります。もう一つは恐怖の低減であります。こういう行動をすれば助かる可能性が高いという知は恐怖心を低減させるので有益となるわけであります。危険は外的次元であり、恐怖は内的次元であります。その両方の次元で対処を講じておくと望ましいことでしょう。 

 地震がどのようにして発生するのか、そのメカニズムを究明することは学問としては意味があることでしょうが、一般の人に直接的に役立つとは私には思えないのであります。そのメカニズムに基づいて生じた地震に対して、どのような備えをしておくべきか、どのような行動を取るべきかを学んでおく方が、一般の人にははるかに役立つはずであります。どのように役立つのか、ひと言でいえば「できる」ことが分かる(もしくは見える)ということであります。それが「見通し」ということに通じるのであります。地震が発生するまでにどういうことができるのか、地震が発生した時にどういうことができるのか、 地震の後にどういうことができるのか、それが見えてくるということが大事であると私は考えています。 

 そして、次の点がさらに大事なのですが、「できる」ことが分かる(見える)と、人は行動に移ることができるのです。そうして対処行動をしている時、その人は恐怖心を克服しているのであります。 

 恐怖心から行動に駆り立てられると信じている人も多いことでしょうし、確かにそういう場面もあることでしょう。しかし、一般的に言えば、恐怖は人の行動を抑制する力があるのです。むしろ、恐怖心に駆られて行動するという場合、その人は「助かる」可能性を信じているのではないかと私は思うのです。闇雲であれ、これをすれば助かるかもしれないという可能性を信じているのです。本当の恐怖心は人を硬直させ、行動に移せないものであります。 

 地震が来た時のために備えておくことや、地震が来て避難している時、その人は本当は地震の恐怖心に打ち克っているのであります。恐怖心ではなく、自分が助かる可能性の方を信じているのであります。そのように言えるのではないかと私は考えています。 

 地震の例を踏まえれば、「治らない人」は地震が恐ろしいので地震のことばかり研究するようなものであります。「治る人」は、自分が助かる可能性を信じているので、地震のメカニズムを研究することよりも、どのように備え、どのように行動するのが望ましく、どこへ逃げたらよいのかといったことを調べる方向に進んでいくと言えるでしょう。この時。恐怖心は低減されており、それのおかげで危機への対処が考えられるようになっていると私は仮定しています。以上のように考えると、「治らない人」の行為はなかなか「見通し」へつながらないのであります。彼らの行為は恐怖心の低減に至らないためであります。 

 

 さて、「治らない人」がどうして原因探求に耽溺してしまうのかという問題もあるのですが、今はそこに踏み込まないことにしたいと思います。人それぞれの状況や理由も違うでしょうが、無力感の故にそうしてしまうという部分が少なからずあるように思います。だから原因探求に没頭すること、過去に耽溺することは、それ自体が症状もしくは症状の一環であると私は解しています。 

 

(ここまでのまとめ)  

 4項に渡って述べてきましたが、簡単にまとめておきましょう。 

 人生上の困難に遭遇した際に、前に進めないとなるとどうしても過去に目を転じてしまう傾向が強まるでしょうし、なぜこうなったのかという原因探求へ向かってしまうことでしょう。 

 しかし、その原因というものは見つからないかもしれないし、あらゆることが原因として考えられてしまうかもしれません。それは心や精神は一対一で因果対応しないからであります。 

 こうした原因探求は不毛な作業に終わってしまうことでしょう。しかし、心理学者などが原因を説明すると、彼らは自分にそれを当てはめて考えるようになるのです。それから過去の親子関係などを洗いざらい想起しようとしたりし始めるのであります。 

 しかし、過去のそうした経験に原因を探求することは、無力感や生きる意志の喪失をさらに招いてしまうかもしれないのです。ますます自分自身が耐えられなくなるかもしれません。すでに自我が圧倒されている状態にある人にとって、この事態はますます自我を破綻させるように作用してしまうかもしれません。さらに苦しくなり、この苦しみの原因探求へと駆り立てることになれば、ここに悪循環が生まれることになります。 

 原因探求は治療ではないのです。この人に治療的に働きかけようと欲すれば、何よりもこの悪循環から抜け出すことを手伝わなければならないということになります。「治らない人」の中にはこういうアプローチを迫害的に解釈する人もあるのですが、彼らは原因探求に、過去への耽溺にあくまでも拘泥してしまうのです。 

 ここから両者に違いがでてくるのですが、「治る人」は原因探求を放棄するわけです。なぜそうなったかよりも、この状況で何ができるのかということに目を向けるようになっていくのです。できることが見えてくると、それだけでその人の生きる意志が快復してくるのです。そして、生きる意志が恐怖心を克服していくのであります。恐怖心の低減が、危機的状況に対しての対処行動を導くのであります。さまざまな見通しがさまざまな希望を生み、そこから可能性もさまざまに広がっていくのです。もはや彼の目は過去ではなく将来の方へ向くようになっているのです。 

 ここからは本節の内容から外れてしまうのですが、少しだけ補足しておくと、「治る人」が行動するようになり、さまざまな経験を自分のものにしていけばいくほど、過去の影響力が小さくなっていくのであります。やがて彼は過去のことで苦しむことが少なくなっていくのです。機会があればそのことを述べたいと思いますが、ひとまず、ここで区切りをつけたいと思います。次項より、原因探求に関しての補足を挙げておきます。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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