<#005-23>原因探求の陥穽~原因探求は治療を長期化する
(治療の短期化を目指した人たち)
因果の法則に従えば、原因は結果よりも先行していることになります。先に原因となる何かがあって、後に結果としての何かが生まれるわけであり、これが逆転することはないのです。従って、原因探求は自ずと過去に目を転じることになります。
では、過去に目を向けるのはいいとしても、どれくらい過去を振り返ればいいのでしょうか。人間が一連の時間の流れで生きている以上、どこまでも過去に遡ることが可能であります。そうして行き着く先は幼児期になるでしょうし、それどころか胎児期とか前世とかいった時点にまで行き着くこともあるでしょう。
フロイトの精神分析は、見ようによっては、そのような流れを歩んできたところがあるように思います。初期の精神分析では、『ヒステリー研究』に所収の事例なんかを見てみると、治療期間は半年から一年程度のものが多いのですが、後になるほど治療期間が5年とか8年とかかかるようになっていることが分かります。これはフロイトが根本治療を目指すようになったためであります。根本の原因に行き着いて、そこに光を当てないといけないと、フロイトはそのように考えたようであります。
治療に5年とか8年とかの長期間を費やすと、その人が本当にその治療で治ったのかどうか疑わしいと、後にアイゼンクが指摘しているのですが、私はこの指摘は一理あると考えています。それだけの長期に渡ると、治療以外の要因がその人に作用することもあるでしょう。
また、フロイトの弟子たちの中にも治療が長期化することに異議を唱えた人たちがいました。オットー・ランクやサンドール・フェレンツィといった人たちでありますが、彼らは患者の幼児期まで遡る必要性に疑問を覚えていたのでした。
私は一つの見解として、クライアントの幼児期まで原因探求すればするほど治療期間が長引くと信じております。治療期間が長引くと、それだけ症状も長期化してしまうことを意味するので、治療的観点から見ても望ましいことではないと私は考えています。必要な期間は設けても、それを過度に長期化させないほうがいいと考えています。結果的に、治療期間が長引くほどクライアントに多大な負担をかけてしまうことにもなると私は考えております。
フロイトの弟子たちに限らず、治療の短期化を試みた臨床家たちは原因探求をまず避けるという傾向があったように思います。解決志向アプローチに至ると、もはや問題も聞かないという姿勢を保っています。ゲシュタルト療法や論理療法も過去を取り扱わないという姿勢を有しています。行動療法もそうであります。その人がなぜそのような問題を抱えるようになったのか、そういった次元のことには一切触れないのであります。
本項での結論を繰り返しますと、カウンセリングであれ、その他の治療法であれ、原因探求に取り組んでしまうと治療は長期化するのです。それはクライアントにとっても負担となり、また悪影響をもたらすと私は考えています。
(クライアントは本当に原因探求を求めているのか)
臨床家や研究者の中には、フロイトがそう考えたように、根本の原因から解決しなければならないと考える人もあるでしょう。それはそれでけっこうなのですが、ここにもう一つ問題があるのです。果たしてそれがクライアントのニーズに適合しているかという問題であります。
私の場合、クライアントはこのサイトを閲覧していて、私のカウンセリングに対してある程度イメージされていることが多く、一定期間は通う覚悟を固めて来談してくれることが多いのです。それでも半年から一年くらいのスパンで考えておられる方が多いようであります。一年くらいは通う気持ちでおられる人に対して、5年も8年も要するようなアプローチを採用することは、私としては、控えなければならなくなるのです。クライアントのそのニーズに合わせようとすれば、私もまたクライアントの原因探求なんかに踏み込まない方がいいということになるわけです。
私自身も長期に渡るカウンセリングを提供するつもりはないのであります。もっとも重要なことは、クライアントが現在の彼の状況から抜け出ることであり、あるいはそのための光明が見えるようになることであります。クライアントもそういうことを求めていることが多いと私は考えています。原因探求がそれをもたらすことはないし、それどころかそれはその正反対の作用をクライアントに及ぼすこともあると私は考えています。原因探求は、仮にそれをクライアントが求めているとしても、クライアントが本当に達成したいこととは相容れない活動になってしまうと考えています。
また、原因探求は不毛な作業に終わることになるのです。結局、特定の原因に行き着くということができないからであります。過去のある出来事が原因であると特定しても、ではなぜその出来事を招いてしまったのか、その原因がどこにあるのかという疑問がさらに生まれてしまうからであります。因果が連鎖的に関連しているとすれば、どこまでも原因をさかのぼらなければならなくなります。そこまでしても、得られるものはわずかであるかもしれません。
(悪者探しと名医探し)
ところで、一般の人が臨床心理学などの理論に触れて、自分の原因を考える時、大抵は幼児期や児童期における親との関係に原因を求めるのであります。人格形成期における親子関係とか家庭環境などに原因が求められるのです。アダルトチルドレンを研究している人たちがそうなのでありますが、専門家でさえ原因はそこにあると指摘していることもあり、非常に困ったものであると私は感じております。
そこで一般の人たちは素直にそうした理論を信じてしまうようであります。そしてこの人たちに生じることと言えば、いわば悪者探しなのであります。自分がこうなったのは誰が悪いのかという話になってしまうわけであります。
「原因は分かった、では、だれに責任があるのか」というふうに思考が発展していくと、もはや、原因探求ではなく、単なる悪者探しになってしまうのですが、両者は異なる活動であります。前者には自己探求の要素があるけれど、後者にはそれがなく、加えて、後者は攻撃的衝動を根底に有していることが多いように私は考えています。従って、この人は攻撃的衝動をむしろ解放していることになるのです。本当ならそれは抑制されなければならない衝動であるのですが、彼らはそれを解放してしまい、自分がそれを解放しているということに気づかないようであります。悪者を攻撃するのは正しいことだと信じている(感情的正当性の優位)ような人も私はお見かけするのですが、これはすべて理論の活用が誤っているのであります。
私も比較的最近、こういう場面に遭遇しました。人に迷惑をかける酔っ払いというものがいます。ある女性がどうしてあの人は酔っぱらったらああなるんだろうと疑問を呈し、「きっと親子関係が悪かったのね」などと述べたのでした。私はそんなこと関係ないと言ってやりました。実際、飲酒行動と親子関係との相関性はそれほど高くないという研究結果もあるのですが、私もその通りだと思います。その人が酔っぱらって迷惑行為をするのは、単に酒の飲み過ぎでアタマがおかしくなっているだけのことであります。この女性は、当然心理学の専門家でもなんでもないのですが、人の問題行動を目にして、すぐに且つ自動的に親子関係に帰属させてしまうのは、おそらく彼女だけではないでしょう。一般の人たちがどれだけそういう思考に馴染んでしまっているかを垣間見た瞬間でありました。
原因探求をして行き着く先といえばこの程度のことなのだと私は思います。
(本項まとめ)
雑多な内容になったので簡単に本項をまとめておきましょう。
原因探求のような作業を治療の場で行うと治療が長期化してしまい、それはクライアントにとって負担を生み出し、加えて、クライアントが求めているものから遠ざかることになる、それが本項での論旨でありました。
原因探求はさらに発展して悪者探しに至る場合があるということ、それは攻撃衝動の解放を容易にする傾向があることなど、望ましくない点がいくつかあるのです。それに関してはACに関するページなどを参照していただけたらと思います。私たちは論を進めることにします。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)