<#005-18>感情的正当性の優位~「治る人」(1)
感情的正当性が優位である場合、その傾向が治療やカウンセリングの継続に危機をもたらすことがあり、その点でたいへん問題になるわけでありますが、ここからは少し視点を変えて「治る人」たちがどういうことをしているのかを記述することにします。
やはり取り上げたい事柄はたくさんあるのですが、ここでは二点に絞ることにします。
(感情体験だけで判断しない)
「治る人」たちも、カウンセリングや治療場面で不快感情体験をされるのであります。それに関しては「治る人」も「治らない人」も違いはないと私は考えています。
簡潔に述べれば、「治る人」も同じように不快感情体験をするにしても、彼らはそれだけで判断しないということであります。悪い感情体験をすることがあっても、その他のもののために治療やカウンセリングを継続される人もあるわけです。
いくつかの例を挙げることにしましょう。
これはひきこもりの症例として以前もこのサイトで取り上げた男性でありますが、彼は彼の言うところの「醜い人」とは付き合いたくないと訴えていました。彼の基準で言えば、私は「醜い人」になるそうであります。つまり、彼はもっとも付き合いたくない人種の人と一緒に作業していくことになったわけでありますが、それは彼にとっては不愉快なことであったのではないかと思います。
自分の選んだ臨床家が付き合いたくないタイプの人であっても、彼は最後までカウンセリングを続けられたのであります。別の動機が彼を動かしていたのだと私は評価しています。相手は不愉快な人間であっても、他の目標や動機のために、彼は継続して、非常に不安定ながらもひきこもりのような状態からは脱し始めたのでした。
また、夫婦問題で訪れた男性は後にこう言ってくれました。こういうことを言えば、こういう答えがきっと帰ってくるはずだと彼は予測するのですが、私がすごい変化球を投げてくると彼は言うのです。予想している答えとは違った答え、それも変な角度から返球されるということであるそうです。私が思うに、これは非常に不愉快な体験ではないでしょうか。
彼は帰宅して、なぜ私がああいう答えをしたのかということを考えるそうであります。そして、どうしても分からないから、それを確認するためにももう一回受ける必要があると感じられるそうであります。つまり、毎回、彼の中に疑問が残り、それを解消するために継続していたようであります。疑問が残るというのは、要するに、スッキリしていないということであるので、毎回不快な感情体験をされていたということになるでしょう。
同じような性質の体験をされた父親も私は思い出します。息子さんのことで相談に来られたのですが、この父親はいかに息子のことを考えているかを逐一私に見せてくれるのです。ところが私が毎度のように疑問を提示するので、彼は困惑されるのです。「分からん、分からん」と口癖のようにおっしゃっていたのを思い出します。
分からん分からんと言いながらも、この父親はカウンセリングを続けられたのです。ある時、息子さんと話をしている時、この息子さんは「お父さん、それは違う」ということを述べたのでした。実は、それまで息子さんがこんなふうに反応することはなかったので、父親の方に変化が現れていたのだと思います。息子さんからみて、違うということを言っても大丈夫な父親に見えていたのでしょう。それは父親の方の変化であると私は考えています。
息子さんから「それは違う」と言われた時、この父親はやはり「分からん」と思われたそうでありますが、この経験から父親は全部が分かったのでした。かなり後になってから、彼は私が言っていたことの意味が分かったと打ち明けます。不思議に聞こえるかもしれませんが、この父親は、息子さんと関係しないように関係していたのでした。彼はそこがいつまでも見えなかったのであります。「違う」と言われた時、息子さんの方が父親に関係していったのであります。
この父親もカウンセリング場面では、疑問ばかりを得ていたように思います。「息子さんのことをしっかり考えてるんですね」などという言葉は私からは聞かれないので、さぞかし不愉快なことでしたでしょう。それでも、この父親の場合も、その疑問を解消するために受けようとなされたようでありました。
女性の例も挙げておきましょう。この女性は、カウンセラーに話すよりも友達に話した方がよっぽどいいとおっしゃられていたのでしたが、それでも定期的に私のカウンセリングを受けにこられたのでした。私の面接を受けても彼女は満足しないはずです。それで、ある時、そういう話は友達にしたらよろしいのではありませんかと、私は意地悪な質問をしてみたのでした。彼女の答えは、友達はこういう疑問に答えてくれそうにないということでした。
話すなら友達に話した方が満足するのです。カウンセラーと話しても彼女は満足を得られないということ(カウンセリングの方には不快感情体験が伴う)なのですが、それでも、この疑問は友達には答えられないとか、この話題は友達には話せないとか、そういうものがあるようでした。つまり、満足は得られないけれど、カウンセリングでしか話せない話や疑問があるから彼女は受けたということであります。
また別の女性では、この人は様々な相談機関を転々としてきた人でありましたが、トータルな話ができるのはここだけだというふうにおっしゃられたのでした。彼女は様々な問題を抱えていて(というのは彼女の主観でありますが)、必要に応じて、行政の相談や法律相談や教育相談なども受けておられたのでした。この問題はここ、あの問題はあそこという形で内容に応じて相談機関を分けていたのでした。
彼女が困る(不快感情体験)のは、結局、私が何の専門家なのかが曖昧であったところにあります。法律や教育や育児とか、そんなふうに明確になっていないので困っていたようでした。毎回、彼女は困惑しながらでも受けておられた(毎回不快感情体験をされていたようであります)のですが、いろんなことを話せるということ(それが彼女の言うトータルということなのでしょう)が良かったようであります。法律の先生の前では、これは法律とは関係がないと思えた場合、その話を控えなければならなかったようです。相手の専門に合わせて、何を話し、何を話さないかを、彼女は選別しなければならなかったようであります。ここではそういう配慮は不要だと思われたようであります。
ところで、余談でありますが、この女性は様々な問題を抱えていたということですが、それは彼女の主観的体験でありまして、本当は一つの問題しかなかったのであります。その一つの問題が様々な場面で、時に形を変えながら表面化しているだけのことであったのであります。だから彼女はトータルに話せるという体験をされたのだと思います。
いくつかのケースも見てみましたが、多かれ少なかれ、彼らはカウンセリング場面で不快な体験、不愉快な感情体験をされているのであります。ただ、そこだけで評価したり判断したりしていないのであります。その点が読み取れれば結構であります。
不快感情体験があっても、それ以外の要因が働くので、彼らは継続するのです。それ以外の要因によって、「治らない人」よりも、不快感情体験で苦しむことが少ないのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)