<#005-16>感情的正当性の優位~カウンセリング治療場面(4) 

 

 感情的正当性の優位であるとは、判断や決断が個人の主観的感情体験だけで決定されるということであり、それは治療やカウンセリングの場面、特に中断に関する場面でよく見られるということを述べてきました。次に、それ以外の場面に目を転じていきたいと思います。 

 

(快を得るまでしがみつく) 

 これはどういうことかと言いますと、快感情を獲得するまで、その人を放さないとか、帰らないとか、終わらないとかいった現象であります。治療者だけでなく、家族や友人もそれの対象となることもよくあります。一度、その人につかまると、その人が満足するまで延々と付き合わなければならなくなるということです。当然、治療者や周囲の人の状況などおかまいなしであります。 

 私がけっこう頻繁に遭遇するのは、子供のしがみつきに親が延々と付き合わされてしまうという例であります。長文のメールが長時間にわたって親に送られ続けるとか、3時間も4時間も夜中に子供に付き合わされるなどであります。 

 治療的観点から言えば、そういうものは最後まで付き合わない方がいいと私は考えています。ほどほどのところで打ち切って、続きは明日にしようと提案した方が望ましいと考えています。もちろん、感情的正当性が優位である場合、こうした提案は悪いこととして評価されることになります。自分は快感情を得ていないのに、それを打ち切られるというのは彼らには相当辛いことでありましょう。極論を言えば、他人の迷惑よりも自分の快不快の方が正しいということになってしまうのでしょうが、付き合う方にも限界があるもので、その限界以上に付き合う必要はないと私は考えています。 

 臨床家の中には、そういうものには最後まで付き合った方がいいと考える人もあるようです(例えば境界例治療で有名なアドラーなど)。私は反対です。その見解には賛成しません。何が何でも快感情を獲得することよりも、快を断念できる方が大事であると思うからです。 

 快を断念できないのは、瞬間的に生きていることの現れであると思います。つまり、今ここで満足を得られなくても、次に満足を得られたらそれでいいわなどと思えないということであります。今日はうまくいかなかったけど、次があると思えるということは、この人には時間的な観念がしっかりしているのであります。絶対に今日でなければならないというわけではなくて、いつか満足が得られればいいと思えるのであります。 

 ここで問題になっている人たちとは、今、快感情を獲得できないなら、それでお終いだと言わんばかりの人たちであります。この瞬間に快感情を経験できるかどうかが最重要事項であって、次の時ではダメだということになっているのです。次の機会というものが欠落しているとすれば、この人は時間的展望をあまり持てないということであり、時間的展望を有さないから将来に期待するということができなくなり、今この瞬間の価値が高くなるのだと思います。今この瞬間の価値が高くなるというのは、要するに、今この瞬間のものがすべてであるということであります。今この瞬間に満足が得られないなら、次の時に得られても意味がなく、いわば後がないということになるわけなので、何が何でも今この瞬間に快感情を獲得しなければならなくなるのでしょう。 

 

(悪い感情=悪い自分) 

 もう一つ、そのような人たちが必死になってでも快感情や満足を得なくてはならなくなっているのは、その人が悪い感情に支配されているためでもあります。その悪い感情は、その人の中で限定化されることがないのです。つまり、私が悪い感情を経験しているとか、私の中に悪い感情が生まれているとかいう体験様式ではなく、悪い感情がそのまま悪い自分になってしまっているということであります。病との同一視と同じようなことがここでは生じていて、悪い感情との同一視が起きていると言えると思います。 

 快感情や満足を得るまで粘るのは、悪い感情を放逐して、いい感情を取り戻し、そのいい感情との同一視を通していい自分になろうという試みであると理解することができます。そのため、当人には自分を良くするため、自分を回復するための試みとして理解されていることもあるようで、それに最後まで付き合ってくれない人はとんでもない悪人に見えてしまうのでしょう。当然、そのような回復は望ましいことではなく、その一部分との同一視、一部分の全体化が修正されなければならないと私は考えています。 

 彼らはその快感情体験、満足を外界の他者や事物からもたらされることを期待するのだと思います。それは衝動的な行為によって現れるかもしれませんし、依存症的な行為によって満足の獲得が目論まれるかもしれません。彼らにとって、快感情体験は、自分の中から生まれるものではなく、与えられるものなのであります。 

 

(快の断念) 

 快感情や満足というものは常に得られるとは限りません。得られたら良かったことでありますが、得られなくても最悪のことでもありません。今回は得られなくても諦めることができます。これは快の断念と表現しましょう。 

 快の断念とは、今この瞬間にそれが得られることを断念するということであり、快そのものを永久に断念するという意味ではありません。正確に言えば、今回は諦めて、次回に期待するということであります。従って、快の断念とは快の延期ということであります。快の断念というと、快を期待すること、求めること、それ自体が悪いことであるかのように理解してしまう人もおられるように思うのですが、決してそういう意味ではありません。今この瞬間に満たされることを断念するという意味であります。 

 すでに一部述べましたが、時間的な展望が持てるようになるとこの断念・延期は容易になってきます。今回は望むものが得られなかったけれど、次の機会があると思えれば延期も容易であります。また、過去経験を参照することもできるでしょう。過去のあの時にも得られなかったけれど、最悪の事態にはならなかったし、何回かに一回くらいはそれが得られていると分かれば、今回は得られなくてもいつか得られると期待できるし、得られなくても大丈夫だと思えることでしょう。 

 ここにはすでに次のテーマが含まれています。彼らは過去経験が蓄積していかない傾向があるのです。その瞬間ごとに切り取られたような生を送っているためでしょうか、過去経験を参照することができないのであります。 

 

(経験が蓄積されない) 

 これは簡単な話でありまして、快を得られれば、その時点で満足して、そこで終わり、不快を得れば中断して、以後、省みられなくなるので、体験したことが身につかないというわけであります。 

 快はその時かぎりのもので、ただ過ぎ行くものになり、不快からは何も学べず、ただ無に帰するということであれば、その人の中で積み重なっていくものがなくなるでしょう。私は決して大げさに言っているつもりではありません。本当に何も残っていないというような人もおられるのです。 

 経験が蓄積されていかないので、その人はいつまでも不変のままであります。過去から学べないので、過去にやったのと同じ過ちをやってしまうということもあるようです。学ぶ過去経験が残っていないのであります。同じことを彼らは反復してしまうのですが、自分が反復しているということにこの人が気づいているかどうかも怪しい、と思われることも私にはあります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

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