<#005-15>感情的正当性の優位~カウンセリング治療場面(3) 

 

(快でもあり不快でもある-続) 

 治療体験、カウンセリング体験が、快体験でもあり不快体験でもある場合、感情的正当性が優位の人である場合、それを今後継続するかどうか、二回目を受けるかどうかの決定に大いに悩むことになります。 

 やはり、私の受ける印象では、決断が延長されることが多いように思います。その場で決められず、後日連絡するという形を取られるのです。 

 その人がその間にどういうことをするのかでありますが、中にはその先生のことについて丹念に調べるという人もあります。決定もしていないのに、途中報告という口実で私と話そうとする人もあります。快でも不快でもないという人たちよりも、この人たちはより多くの葛藤を経験していることが窺われます。彼らはなんとかして快か不快かの決着をつけたいと望んでいるように私には思われるのであります。そのため、なんらかのアクションを起こされるのだと私は考えています。 

 そうして葛藤を経験しながらでも、一部の人たちは継続を望むのです。この場合、不快には目をつぶって、快だけを見るという感じの人もおられるのです。例えば、話すことは苦痛だけれど、その場が居心地がいいという場合、その居心地の良さだけを求めるといったことも生じるのです。快だけを求め、不快な体験はできるだけしないようにされるわけであります。 

 もちろん、この快体験がその人の中で内面化していけば、その場に対する安心感が生まれるので、体験される領域が広がることもあり得るであろうと私は思うのです。不快体験になるから避けたかったことでも、徐々にそれを避けなくなるということも生じるのです。一方で、最後までその限られた体験領域、快体験領域に留まり続ける人たちもおられるように思います。この人たちは、快が得られなくなるか、不快体験をしてしまうと、治療から去って行くのでしょう。 

 そして、一部の人たちは継続しない方を選ぶのです。これは不快を回避することを優先して、快の方を捨てることに等しいと私は考えています。危険に晒されつつ快を求めるよりも、快を捨ててまで危険を回避する方が安全であるように感じられるのでしょう。 

 この両者、不快体験を回避しつつ快体験を求める人たちと、不快を回避するために快を捨ててしまう人とを比べた場合、後者の方が自分をより当てにできず、より頼りない自分を体験しているという印象を私は受けるのです。 

 

(快が中断になる) 

 不快感情体験が治療の中断につながるのと同じように、快体験が中断につながるという例もあります。これは「うつ」の人によく見られるものであります。特に「躁うつ」の二相の傾向が顕著な人によく見られると私は感じております。 

 これはどういうことかというと、「うつ」相から抜け出て、その人は気分的に快調になるのですが、その気分だけでもう治療は必要ないなどと独断されるというパターンであります。 

 当人も、またその周囲の人も、その人の「うつ」が回復しているのか、それとも単に「うつ」から「躁」へと移行しているだけなのか、見極めることが難しいのです。当人は自分の主観的感情とか気分だけで判断するし、周囲の人もその人が元気そうであれば回復していると信じてしまうので、しばしば「うつ」から「躁」への移行を改善とか治癒と間違えてしまうようであります。 

 それを見極める一つの目安としては、「うつ」からの回復の場合、その人は以前の生活、以前の自分にまずは戻ろうとされるのであります。もし、人生の方向転換をする場合でも、その人はいったんは以前の生活に戻るのであります。そして、この治療は以前の生活、以前の自分と結びついているものなので、その人は治療を中断しないのです。むしろ、以前の生活、以前の自分に戻るためにこの治療は必要である、とその人たちには感じられるのではないかと私は思います。 

 一方、「躁」に移行した場合、この人は以前の自分とはまったく別人になろうとするのです。いきなり全然別の生活を始めることもあるのです。以前のものは一切合切切り捨てられているかのようであります。過去と結びついている治療も、やはり切り捨てられることになります。以前の生活や自分に戻るのではなく、全然違った生活や自分に飛び移るのであります。以前に属するものは、もはやこの人の心からは切り離されているので、治療だけでなく、時に家族まで捨ててしまうこともあるのです。 

 言うまでもなく、「躁」への移行は、「うつ」が治癒したことを意味していないのです。むしろ、この「躁」は、次の「うつ」相の前段階にあるものであり、次の「うつ」が近いことを予期しているのであります。これを繰り返すとどうなるかと言いますと、「躁-うつ」を繰り返すほど、この人はいろんなものを失っていくのであり、それによって「うつ」相はますます耐えがたいものになっていくと、そのような人たちを見て、そう私は思うのです。 

 

(快感情体験で判断してしまうこと) 

 「躁うつ」の二極性の傾向のある人だけでなく、快感情体験だけで判断してしまう人もけっこうおられるのです。状態とか気分とかが以前よりも良くなった、つまり快感情体験をするようになったので、自分はもう大丈夫だと早合点し、治療を早々に退散してしまうという人がおられるわけであります。 

 カウンセリングを受けると、初期の数回で目覚ましく改善する人があります。最初の数回でかなり状態がよくなるという人も少なくありません。カウンセリングを受けるようになってから調子がいいとおっしゃられることもあるのです。その言葉はそのまま信用していいのでありますが、だからカウンセリングはもう必要ありませんと判断するのは正しくないことが多いのです。 

 初期に見られる改善は、本当の改善とは言えない部分があります。その改善はもっと他の要因によってもたらされていることがけっこうあるように思います。 

 例えば、自分が支えられている感じを経験していて、それが調子の良さにつながっていることなどがよく見られるように私は感じています。それまで独りで悩んでいたり取り組んだりしてきた人が、協力者を得られて、それだけで力づけられるということが起きるわけです。繰り返しますが、それ自体は何も悪いことではなく、むしろ望ましいことなのであります。ただ、それだけでカウンセリングや治療を終了するという判断をしてしまうことが良くないのであります。 

 それは本当の改善ではないので、支えがなくなると、その人は以前と同じ状態に戻ってしまうのです。そうなることはこちらからはありありと見えているのですが、当の本人にはそれが見えず、元の木阿弥になった、だからあのカウンセラーは良くなかったなどと評価されることもあるのです。結局治らなかった、だから意味が無かったとか、治ると思わせといてウソをついたなどと批評したりとか、そういうことをされるのであります。私から見ると愚かしいことであります。 

 もし、カウンセリングの初期段階で有効な改善が見られて、状態が良くなったとしても、それがその人の中でしっかり根付くまでは予断を許さないのであります。だから、状態が少し良くなって、それだけで中断を招いてしまうことは避けなければならないことなのであります。 

 ところで、私がここまで述べてきたことの中に矛盾を感じ取られた方もいらっしゃるかと思います。もし、最初の数回で状態が良くなったのだとすれば、感情的正当性の優位である場合、カウンセリングは良いものだと評価して、むしろ、もっと続けようという気持ちになるのではないか、と思われた方もいらっしゃるかと思います。もちろんその通りなのです。カウンセリングが良いから続けようと判断される人もおられるのです。ただ、そうでない人もおられるということなのです。 

 良い体験をしているのに、どうしてそれを止めるという判断をしてしまうのかということですが、別の問題や別の事情、別の感情などがその人の中にあるからであります。いい体験のままで終わらせたいと願う人もあるでしょうし、この先悪い体験をしてしまうのを予期してしまっている人もあるでしょうし、この先に現れるであろう何かを回避したいという動機の人もあることでしょう。今はそこまで話を広げないようにしたいと思います。 

 私たちは考察を先へ進めていくことにします。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

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