<#005-14>感情的正当性の優位(6)~カウンセリング・治療場面(2)
(もう少し継続できる人)
感情的正当性が優位である場合、治療やカウンセリング場面(以下、「治療」で統一します)でどのような困難が生じるかということを取り上げています。それが顕著に現れるのは治療の中断場面であると私は考えています。
前項では、治療の過程で何か一つでも不快感情体験をしてしまうと、即座に治療を中断してしまうという、いささか極端なパターンを取り上げていました。一回の不快感情体験で治療を中断するだけでなく、それまでの治療的な努力も無に帰してしまうような人たちを取り上げました。
もちろん、このような人ばかりというわけではなく、人によっては不快感情体験をしてもしばらく治療を継続するということもあります。中断したものの、やはり思い直して治療に戻ってきたりすることもあります。不快な体験をしても、もう少し持ち堪えることのできる人たちであります。この人たちは、即座に中断してしまう人たちよりも、良好な対象関係を築くことができており、且つ、その対象を内面化できていることを示しています。ただし、この継続は非常に脆いものであることが多いように私は思うのです。一度ぐらついているので、しっかりした基盤の上に形成されている関係ではなくなっていることが多いという印象を私は受けています。。
(快も不快もない)
次に、もう少しマイルドな不快感情体験をする人たちのケースがあります。これは特に初回後に今後継続するかどうかを決定するという場面で顕著になることが多いように私は思います。
例えば、一回面接を受けたけれど、快でも不快でもないという体験をする人がいます。そのどちらでもないというわけであります。
しかし、これはけっこうあり得ないことであると私は考えています。仮に一時間の面接を受けたとして、その時間内に何の感情体験もしないとは信じがたいのであります。どの人もそこでなんらかの感情体験をするものであると思います。それが見られないということは以下のような可能性があると私は考えています。
まず、その人が感情鈍麻を起こしていることがあり得るでしょうし、感情を体験しないように自分を防御していたということもあり得るでしょう。時に、混乱していることもあるでしょう。混乱していて何が良くて何が不快であったか評価できないとか、自分がどんな感情体験をしていたのか把握できないといった例もあると思います。反省的自己がうまく機能しないという人もあるかもしれません。その面接がどうであったかを反省することが求められているのに、その機能が上手く働かないために何とも言えないということもあると思います。また、奇異に聞こえるかもしれませんが、その時間、まったく別のことをしていたという人もあります。面接の場にはいたものの、心的には別のことをやっていたというような例であり、これもまったく見られないわけではないのです。
様々な理由とか事情のために、快も不快も体験しない、あるいは何を体験したのか分からないということがあるとしましょう。それを踏まえてでありますが、感情的正当性が優位の人である場合、今後のことが決定できない状況に置かれることになります。判断の基準となる感情体験が伴わないからであります。また、継続か否かを決定できないだけでなく、治療に対してどのような態度を採っていいのかも決定できず、このような人たちは困惑することになるでしょう。
快でも不快でもない場合、つまり感情で評価・決断できない場合、そこに感情以外の決定要素、判断要素を持ち込めればいいのですが、感情以外に利用できる手段がなければ、この人たちは決定できないことになります。そこで、彼らは継続するか否かの決定を一時延期されることがけっこうあるのです。
しばらくして、継続を決める人もあります。しかし、もう一度受けてから判断したいと申し出る人などもあれば、やっぱり止めるという判断をする人もあります。後者は不快感情体験をするようになったのだと私は思います。その不快感情体験は、面接時に体験していたものに後から気づく場合もあれば、面接後の日常生活の中で体験されているものもあると私は思います。
さらに、止めると決定した人でも、私にその旨を連絡してくる人もあれば、連絡もなくウヤムヤになってしまう人もあります。体験されている不快感情の度合いは、やはり後者の人の方が大きいのだと思います。
どのような選択を決断されようと、私はクライアントの意志に従うしかなく、継続しない場合は、それはそれで仕方のないことであると受け止めています。感情だけで決めていないかどうか、もう一度考えてほしいと願うのでありますが、感情的正当性が優位の人に対して、これは無理なお願いになるのかもしれません。継続しなかった人たちがその後どうなったかは私には知る由もありません。
(快も不快もある)
上述のパターンは、治療やカウンセリングが快でも不快でもないというものでありました。私個人としては、それはあり得ないことであると思っています。むしろ、次に述べるような快でも不快でもあるということの方が一般に見られることではないかと思います。
一回の面接が快でも不快でもあるということは、つまり、ある部分では快であり、他のある部分では不快であるという体験をされているということであります。どのような体験場面であっても、人はそのように体験するものではないかと私は考えています。ある部分は良く、他のある部分は良くなかったという体験をするものではないでしょうか。そして、全体として良かったとか、良くなかったといった評価をしているものであると思います。
これはどういうことであるかと言いますと、個々の場面が個別化されているということであります。あの時は良かった、この時はいまいちだったなどと評定できるのは、各場面が個別化されているから可能であると考えています。
こうした個別化ができない場合、例えば、一部分だけで全体を評価するということが起きるでしょう。一つ良くないものがあったので全部悪いと評価したり、一つ良いところがあったので全面的に良いと評価するなど、極端な評価をしてしまうことになると思います。それぞれの場面が個別化されないので、ある一場面の感情がその他の場面にまで浸透してしまうのでしょう。
また、各場面が個別化されていない場合、全体を漠然とした雰囲気で評価しなければならなくなるかもしれません。どこがどうと言うことができず、漠然と良いとか悪いとか評価せざるを得なくなるわけであります。快でも不快でもない(あるいはそのどちらもある)という人の中にはそのような人もいるかもしれません。彼らは各場面を個別化できないのかもしれません。
さて、ある場面では快であり、他のある場面では不快であるという、このような体験をした場合、それを継続するかどうかますます決定が困難になることでしょう。快か不快か、そのどちらかに決着をつけなければならなくなります。どちらとも決められないという状態もまた感情的正当性の優位である人にとっては不快感情体験になるでしょうから、その不快感情を払しょくするためにも、これは早急に決着をつけなければならない問題になるかもしれません。
どのように決着をつけるか、次項で考察したいと思います。尚、個別化のテーマ(場面の個別化、対象の個別化、経験の個別化などを含む)は後に節を設ける予定でいますので、私たちは考察を進めていくことにします。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)