<#004-7>追記と補足
本章(<#004>)は私のカウンセリング論を展開する章であります。
カウンセリングについて述べようと思っても、どこから始めて良いのか困惑してしまったので、一般的に耳にする「通説」とか「俗説」をその糸口にしてみようと思いました。
ここまで、「カウンセラーは話を聴くものである」という通説と、それとの絡みで「話すとラクになる」という通説を取り上げてきました。
ここまでを少しまとめておきたいと思います。
カウンセラーは話を聴くというのは正しいのでありますが、それはカウンセリングにおける活動の一部でしかないものです。
話を聴くだけでなく、その話しに区切りをつけていくこと、クライアントの話を終えさせること、話を完結させることなどもカウンセラーは手伝わなければならないという観点を述べました。
話が一区切りつくとか、ひと段落着いた時に、緩和がもたらされることを指摘しました。これは沈黙の形でもたらされるものであり、発話と沈黙とで緊張と緩和のサイクルができるのであります。この緩和の体験がなければ「話すとラクになる」という結果には至らないと私は考えています。
従って、カウンセラーの仕事の一つは、クライアントの話に緩和の体験を作っていくところにもあるということになります。この緩和は、カウンセラーの介入によってもたらされることもあるので、黙ってひと言も発しないカウンセラーはそれに失敗してしまうと私は考えています。
それに加えて、クライアントの「話を聴かない」ということも仕事の一つとなることを述べました。話を聴かないということがクライアントの助けとなる場面もあるのであります。つまり必要以上にクライアントから話をひきだしてはいけないのであります。心の扉は開けない方がいい場合もあるのであります。
その人の何を聴いて、何を聴かないでおくか、一人一人によって異なるので、私は一人の人を一から学んでいかなければならなくなるのであります。
あとは補足とか追記となります。
「話してラクになる」といった体験は、その人の罪悪感などとも関係してくるものであります。本項では緊張と緩和という観点のみ取り上げたのでありますが、「話してラクになる」という現象にはもっとその他さまざまな要因が関係しているものであることは申し上げておきたいと思います。
また、沈黙には、緩和となる沈黙もあれば、緊張を高める沈黙もあるのであります。最初は心地よかった沈黙の時間が、それがあまりに長引くと、沈黙の時間が緊張になってくることもあります。そこから「何か話さないと」と思って話し始めるクライアントもおられるのでありますが、この場合、発話の方が緊張緩和になることになります。こういう体験をしてしまう人には申し訳ないと思うのですが、これはこれで意味のある体験であるのです。ここでは緊張と緩和とが逆転して、発話が緊張緩和になるのです。話し終えて「ホッとする」のではなく、「話すとホッとする」ことになるわけです。意地悪な見方をすると、ここでなされる発言はクライアントの「本音」が現れることが多いのです。しばしば「沈黙の後にクライアントは重大なことを話す」とこの業界では言われるのですが、それも頷けるように思います。発話に緊張緩和が結びつく(つまり警戒心を解いて油断する)からであります。しかしながら、あまりそういうのもよろしくないのではないか、という思いも私の中にはあるのであります。
また、望ましくない沈黙で別の形のものがあります。クライアントがセンテンスを最後まで言い切らなかったり、言葉を濁したりした後で生じる沈黙は、何かクライアントの中で良くない観念が浮かんでいることが多いようであり、その場合、クライアントはこの沈黙を気まずい思いで過ごすことになるでしょう。あるいは、最後の発言が「自虐的」内容のものであった場合、この沈黙はクライアントが自分を責めている時間になってしまうでしょう。沈黙が常に緊張緩和になるわけではないということも押さえておきたいと思います。
どのクライアントも自分の「安全領域」から話し始めるものであります。ここは押さえておく必要があると思います。このテーマはまた別の機会に取り上げることになるのですが、少しだけ触れておくことにします。
いささか「病的」(あまり使いたくないコトバだ)傾向の強い人は、いきなり自分を脅かすような話題から始めるのであります。そういう場合は、いったんその話を止める必要も出てくるのであります。
また、問題を話さなければならないと信じ込んでいる人は、いきなり自分の抱えている問題を話そうとされるのです。その場合、話し始めることができず、最初に長い沈黙が訪れることも稀ではありません。
いずれにしても、自分にとって脅威となる事柄をいきなり話そうとされるのであります。前者は抵抗なくそれを始め、後者はそれに対する抵抗感があるという違いが認められるのであります。これは、衣服の着脱の喩えで言えば、いきなり服を脱がなければいけないと信じ込んでいるようなものであります。前者は抵抗なく服を脱ぎ、後者はそれに抵抗があるということになります。いずれにしても、ある意味では、この人たちは無防備であり、自分を守ることができていないのであります。そして、それをすると(つまり、話させると)、まずその人にとって良くない結果になるのであります。その意味でも、話をさせないことという観点が重要になってくると私は考えています。
心的に健常(これも使いたくないコトバだ)な人は、話しても脅威をもたらさない領域のことから話し始めるのであります。あるいは、脅威をもたらさない程度に距離を置いてその事柄を話されるのであります。これは自我の防衛機制が働いているということになるので、心的により健常であると考えられるのであります。
では、「安全領域」の事柄から話し始めてどうなるでしょうか。そのまま、その領域の話だけで終わることもあるでしょう。ユング自伝にあるアメリカ人クライアントのようにです。
しかし、クライアントはもう少し話してみようという気持ちになられることが多いようであります。「カウンセラーが興味を持ってくれているから」という場合もあるでしょうし、「このカウンセラーにはもう少し説明しないと分かってもらえなさそうだ」という場合もあるでしょう。いずれにしても、そうしてクライアントが話を少しずつ広げていくのであります。クライアントが話しても大丈夫と思える範囲のものを差し出してくれるのであり、基本的に、私はそれを待つという姿勢を好むのです。それを引き出そうとするカウンセラーは、私から見ると「せっかち」なのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)