<#004-3>話を聞くこと
(傾聴はカウンセリングのごく一部である)
これから私のカウンセリング論を展開していくのでありますが、その糸口としていくつかの通説を通して考察していこうと思います。
最初に取り上げるのは「カウンセラーは話を聴く」という通説であります。この通説は、それ自体は間違っているわけではないのですが、私が思うに、これはカウンセリングにおける活動性の2割程度のものにしか該当しないのであります。カウンセリングには、クライアントの話を聴くという活動も確かに含まれているのですが、それ以外の活動がもっとあるのです。そのことは追々述べていくことにして、まず、カウンセリングにおける傾聴重視の風潮を振り返ってみたいと思います。
(傾聴に関する誤謬)
臨床心理学ならびに精神分析においても、クライアントの話を傾聴するということが言われています。それはそれで正しいことであると私も思うのですが、欧米の人が述べている「傾聴」は、日本人の場合とはまた違った意味合いがあると私は考えています。
欧米では自己主張などが推奨される文化であります。アメリカで教鞭をとってきた教授が「日本の学生はやりやすい」とおっしゃっていたのを私は思い出します。アメリカでは教授が講義している最中でも四方八方から学生の質問や発言が飛んでくるそうであります。それに比べると、日本の学生は講義を静かに聞いてくれるからやりやすいということでありました。
宗教にもそれが見られるかもしれません。仏教では説法とか法話など、僧侶が話し、人々がそれに耳を傾けるのであります。キリスト教でも、例えば説教などは見られるのでありますが、告白とか告解といったような人々が話すという行為は仏教ではあまり見られないかもしれません。
欧米にもジョークや小噺の類はあるのですが、日本の落語とか漫才に相当するものはあまりないかもしれません。要するに、日本は、欧米と比較して、人の話を聴くことに慣れている文化があるかもしれない、と私はそう考えています。
つまり、どういうことであるかと言いますと、欧米の人が人の話を聴きましょうと勧める時、その意味は、自分たちが文化的に身に着けた習慣(つまり自己主張することなど)を一時的に抑制して、あまり得意ではないこと(つまり黙って話を聴くことなど)をしていきましょうという意味になると私は考えています。
日本の先生方が欧米のカウンセリングを日本に紹介した時、そうなるのも当然といえば当然なのでありますが、欧米の理論をそのまま日本に輸入したわけであります。欧米の学者さんが「クライアントの話を傾聴すること」と述べているのを、そのまま翻訳されたわけであります。そこから多くの誤謬が生まれたと私は考えています。
欧米の人がクライアントの話を傾聴することという時には、自分たちの苦手なことをやっていきましょうというニュアンスが含まれてくると私は思うのです。同じ文脈で考えるなら、日本のカウンセラーはもっとクライアントに言葉がけしていきましょうという提案になるはずであります。私はそのように思うのです。もともと人の話を聴くことに馴染んでいる国民であると仮定すれば、その馴染んでいる傾向を一時的に抑制して、不慣れなこと、例えば人の話に積極的に介入することとか、人にもっと言葉をかけることとか、そういうことをもっとしていきましょうという提案になるはずであります。私はそのように考えています。
(ノン・ディレクティブ)
この傾聴に加えて「ノン・ディレクティブ」ということが輪をかけてしまうのであります。これは「非指示」と日本語訳された言葉でした。
ディレクティブという英語には、確かに「指示」という意味が含まれています。なんとなく日本語で「指示」と聴くと、指図とか命令とか、そういったニュアンスを感じ取るかもしれませんが、そのような意味として理解しない方が正しいのではないかと私は考えています。むしろ「方向付け」といった意味として理解しておく方がいいと私は考えています。
従って、「ノン・ディレクティブ」とは「方向付けをしない」ということであり、決して「指図や命令をしない」という意味合いではないものと私は考えています。確かに両者は似ているけれど、ニュアンスに若干の違いが感じられるのであります。「非指示」と言う日本語訳はいささか誤解を招いてしまうのではないかという気がするのであります。
この「非方向付け」とは、クライアントの話に関する事柄においてのみ該当するのであります。それ以外のこと、例えば枠組みなどに関しては、カウンセラー側が方向づける必要があると私は考えています。方向付けとはクライアントが話す事柄のみに関わるものであると私は認識しています。
非指示派が流行しているさなかに指示派を提唱したクーンという人がいるのですが、私は大いに賛成であります。その論旨は、非指示が正しく、指示が間違っているといった考え方をするのではなくて、指示的であることが望ましい場面で非指示的であったり、非指示的であることが望ましい場面で指示的になってしまったりすることの方が間違っているということであります。指示か非指示か、それに相応しい場面において柔軟に使い分ける方が正しいと私も思うのです。
さて、この「非指示」ということですが、これはクライアントの話に「一切介入しない」といった意味合いのものとして理解している日本人もおられるのではないかという気がしています。そうなると、クライアントが話し始めたら、それこそカウンセラーは一言も言葉を挟まずに、最後まで黙って聴かなくてはならないという姿勢になっていくのではないかと私は思うのです。
私も過去にそういうカウンセラーとお会いしました。正確に言うと、そのカウンセラーさんは研修中の人たちでした。正直言って「無言カウンセラー」のカウンセリングほど苦痛なものはない、とまで思いました。
(傾聴は黙って聞くことか)
ところで「グロリアと3人のセラピストたち」という映像作品が残されています。これはグロリアという女性が、「クライアント中心療法」のカール・ロジャース、「ゲシュタルト療法」のフリッツ・パールズ、「論理療法」のアルバート・エリスと、それぞれ30分のカウンセリングを受けるというものです
三人の発言数に注目してみましょう。ロジャースでさえ30分の面接に70ほど発言数が見られます。個々の発言には短いものもありますが、けっこうな頻度で介入しているという印象を受けます。
パールズはその倍の140ほどあります。これはワークなどを通して短いやりとりが交わされているためであります。数の上ではエリスが一番少なく、その発言数は40くらいなのですが、その代わり、エリスの一回の発言量が多かったりするのであります。
いずれにしても、セラピスト側の言葉がけは、日本のカウンセラーと比較して、かなり多いのではないかという印象を初見時に受けたのを私は覚えています。言い換えると、あれだけカウンセラーの発言数があっても、傾聴を重視しているということになるのであります。傾聴することは、黙って聞くことということではなさそうに私は思うのであります。日本のカウンセリングは、欧米から輸入した最初の時点で多くの間違いを含んでしまったのではないかと私は思う次第であります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)