<#004-15>見立てと予測(2)~病態水準巡って 

 

 前項では見立てと予測について概観し、予測ということを重視することになった私個人の経験を述べました。今回はその続きであり、見立てに関する内容綴っていくことにします。 

 

(病態水準) 

 クライアントの「見立て」を立てるとは、ある意味ではクライアントを評価、評定するということであります。では、クライアントの何を評価するのか、その辺りのことから述べようと思います。 

 狭い意味での「見立て」とは医師の「診断」に該当するものであることは前項で述べました。私もそれをするのですが、クライアントに精神医学的診断するわけではありません。クライアントに病名を付すことは、少なくとも私にとっては何の意味もないし、役にも立たないのであります。 

 私の場合、クライアントの病態水準、人格水準を考慮するにとどめています。この水準もどこまでも細分化することが可能ではありますが、細かく区切りすぎると複雑な作業をしていかなければならなくなるでしょう。私は三つくらいが妥当であると考えています。 

 つまり、その三つとは、神経症(適応障害)水準、人格障害(精神病質)水準、精神病水準ということであります。クライアントがどの水準にあるかによって、私の方でもアプローチを変えていくことになるのです。予測に関しても、その人がどの水準にあるかによって左右されるところがあるのです。 

 この話に関して一つだけ注意を喚起しておくと、ある人が人格障害水準にあると評価されたとしても、必ずしもその人が人格障害であるとは限らないということであります。精神病水準にあるとしても、精神病とは言えない人もあるということであります。より正確に言えば、私の評価とその人の(精神医学的)診断とは、一致することもあれば、一致しないこともあるということであります。肝心な点は、それが一致するか否かということではなく、それによってアプローチを決定していくところにあると私は考えています。 

 また、どの人もさまざまな場面に置かれ、それぞれの場面での自分を生きています。もし、一日を詳細に見ていけば、どの人もある時は神経症水準にあり、別の時には人格障害水準になっていることもあり、時には精神病水準の自分を体験している場面もあるだろうと私は考えています。人の心は固定的でもなければ、常同的でもなく、ある程度の一貫性は認めることができるとしても、常に動いているものであると私は考えています。従って、私たちは誰もが健康であり、神経症的であり、人格障害的であり、精神病的であると言えると私は考えているのです。 

 そのため、一人の同一のクライアントが、カウンセリングの時期に応じて水準が推移することもあるのです。初期には人格障害水準であった人が、中期には神経症水準に上がることもあり、何か危機的な状況を経験すると精神病水準に陥るなどといったことも生じるのであります。 

 カウンセリングの「見立て」として病態水準を適用するとしても、それはあくまでもカウンセリング場面における見立てに過ぎないのであります。この点は特に強調しておきたいと思います。 

 例えば、こういう人もおられるのです。カウンセリングのような場面はある種の人にとっては非常にストレスフルな状況として体験されることがあります。その人はカウンセリング場面でかなり強いストレスを体験してしまい、そのために心的退行を来してしまうかもしれないのです。その場面のその人を見ると、この人は人格障害水準であると評価されるかもしれません。でも、普段のその人、カウンセリング以外の場面でのその人は、まったく違った評価をされるかもしれないのであります。カウンセリングにおける見立てはあくまでもカウンセリング場面だけのものであるわけです。 

 普段のその人はそれとは違っていても、カウンセリング場面で人格障害水準に退行しているのであれば、その水準に適したアプローチを採択する方がその人にとって安全であることになります。私が述べているのはそういうことであります。見立て(あるいは診断もそのようなものであると私は考えていますが)は、特定の場面においてのその人の評価であり、その特定の場面のためだけに役立つものであり、それ以上の範囲を持たないものであります。個人にレッテルを貼るわけではないのであります。 

 カウンセリングにおける見立ては、あくまでもカウンセリングをしていくために必要となる作業であり、またその目的のためになされるものであります。 

 

(アセスメント) 

 広義の「見立て」は、クライアントのパーソナリティ理解を含むものであります。これは一般には「心理アセスメント」に該当するものであります。 

 心理アセスメントとは、要するに心理テストなどを施行することであります。通常、複数のテストを組み合わせてテストバッテリーを組んで施行することになります。 

 私のような個人で開業しているとそこはなかなか難しいのであります。一人で複数のテストを施行しなければならないうえに、それぞれのテストに精通していなければならないのであります。私にはそこまでの能力は無いと自分でも思うのです。 

 また、テストバッテリーを施行するとなると、それだけで複数回の面接を組まなければならなくなり、クライアントの負担も大きくなると私は考えています。こういうアセスメントは、初期の段階だけではなく、中期や後期の段階でも施行されることが望ましいので、そうなるとテストのためだけに十数回はクライアントに足を運んでもらわなければならなくなります。それも、テストのためにカウンセリングの流れを止めたくないので、カウンセリングとは別に来所していただくことになるわけであります。 

 心理テストは、客観性と信頼性が高いので有益であるのですが、上述の理由により、つまり私の能力の限界とクライアントの負担ということを考慮すると、心理テストは施行できなくなるのです。せいぜい、質問紙をクライアントに渡して、次回までに記入してくださいとお願いするくらいしかできないのですが、これはすでにテストの客観性を損ねるやり方なのであります。クライアントどういう状況そのテストに記入するか分からず、カウンセラー側でそこを統制できないからであります。施行条件、施行環境を一律にしないとテストの信頼性や妥当性の根拠が揺らいでしまうからであります。 

 こうして私は心理テストを捨て、それに代わる方法を取ることになったのです。これについては、明智小五郎探偵に述べてもらいましょう。江戸川乱歩は短編「心理試験」の最後で明智探偵にこう語らせています。「心理試験というものは、必ずしも、書物に書いてある通り、一定の刺戟語を使い(注、作品では言語連想テストが使用された)、一定の機械を用意しなければできないものではなくて、いま、僕が実験してお眼にかけたように、ごく日常的な会話によってでも充分やれるということです。昔から名判官は、たとえば大岡越前守というような人は、皆自分でも気づかないで、最近の心理学が発見した方法をちゃんと応用していたのですよ」 

 まさに明智探偵の名言と私は思うのですが、明智小五郎には及ばずとも、私もそれをしようと決めたのでした。クライアントは実にさまざまな形で「情報」を与えてくれるものであります。その詳細は次項に譲るのですが、そうした情報を組み合わせることは、テストの結果を組み合わせることと大差はないと私は考えています。 

 

(見立て) 

 以上を踏まえると、私にとって「見立て」とは、クライアントの(あくまでもカウンセリング場面での)病態水準を評価することと、クライアントが見せるさまざまな「情報」を収集して組み合わせることから成っていると言えそうであります。 

 当然のことながら、両者は共通してきます。病態水準は「情報」を気づきやすくし、「情報」は病態水準の裏付けとなったりするのです。そうして私の中でクライアントの「見立て」を立てていくことになるわけであります。 

 すでに述べたように、この「見立て」はいわば作業仮設であって、それによりアプローチを、つまり関わり方を決定していくことになります。そして、この「見立て」は、以後、見直され、修正を受けることになります。その時その時の見立てに応じてアプローチも変えていくことになります。 

 神経症水準ならある程度踏み込んだ話し合いができるでしょう。人格障害水準の人の場合、面接や話し合いをかなり構造化した方がいいでしょう。精神病水準の人の場合、できるだけ当たり障りのない会話を重ねていく方がいいでしょう。 

 神経症水準の人の場合、対面式で話し合って問題はないでしょう。人格障害水準の人の場合、対面式でも、少し距離を大目に取ってあげる方がいいように思います。精神病水準の人の場合、対面式でやるのですが、あまり目と目を合わせない感じにするのが良いようであります。こうして病態水準の見立てに応じてアプローチを考えていくことになるわけであります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

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