<#004-13>歴史の構成 

 

(点は歴史を構成する) 

私たちは学生時代に日本史とか世界史とかといった歴史の勉強を経験しています。 

年号を覚えるのに苦労したという人も少なからずおられることでしょう。「○○年○○の乱」「××年××法制定」などと暗記した覚えがあると思います。これはいわば「点」で暗記したということになるでしょう。 

 歴史の先生の言うところでは、そういう勉強の仕方ではなく、流れとして学んだ方がいいとのことですが、これは歴史を「線」として勉強した方がいいということになるでしょう。 

 個人的には、歴史を勉強する際には両方のやり方を採用する方がいいのだろうと考えています。点だけで学ぶよりは流れ(線)も把握できた方がいいでしょうし、点を設定すると線の理解も容易になるのではないかと私は思うのであります。しかし、歴史の勉強はひとまず置いておきましょう。 

 私が述べたいのは、「線」は歴史の流れそのものであるかもしれませんが、「点」は歴史を構成するものであるということです。点を設定すると、それがどういう時代であったのかが構成されていくと私は考えているわけであります。 

 個々の歴史上の出来事はすべて点になり得るのであります。また、○○時代、××時代といった時代区分も、広く解釈すれば点になり得ると私は考えています。 

 これは個人の歴史においても同じことであると私はみなしております。私の体験する一つ一つの出来事はそれ自体「点」であり、中学時代、高校時代といった個々の時代も一つの「点」となるのであります。 

 個々の点は私の歴史を構成してくれています。あの時こういう体験をした、この時こういうことが起きたといったことが私の歴史を形成してくれているのであり、それによって私は自分の歴史を語ることもできるのです。私はそのように考えています、 

 一つ一つの経験が点となっていない場合、その人には自分の歴史という感覚をあまり持てないかもしれません、すべてが漠然としているのであれば、その人は曖昧な自分を経験しているかもしれません。クライアントは点しか話さないと申しましたが、「点」を形成するということにも大切な意義があると私は考えています。 

 

(点の形成) 

 クライアントは点として話をされるのであります。こういう人は「ご自由に話してください」と誘い掛ければ、手近な「点」から話し始めることでしょう。 

 ところが、「点」として話すことのできない人の場合、「この件についてだけ話してください」とか「その時のこと(だけ)を話してください」などと限定しなければならなくなります。そうして点を形成する、あるいは、個々の体験の間の境界線を強化するということを試みるのであります。 

 点を話すというのは、一点だけを話すという意味ではありません。体験Aを話していて、それから連想が広がって体験Bを話すというのは構わないのであります。ちなみに体験Aとまったく別種の体験Bとが何でつながっているのかを考えることは象徴的な線を考えることになります。 

 体験Aから体験Bに話が移行する時、体験Aのものをそのまま引きずって体験Bに加味されるといったことが生じるのであります。これは「点」の形成が不十分だということになるので、体験Aと体験Bのつながりを考えることが困難となるのです。つまり、体験Bは、体験Aと等質な体験として語られるからであります。AとBとは区別がつかなくなり、同じ体験の話になってしまうわけなので、探求していくことができなくなる、もしくは、探求作業が不毛に終わるということになるかもしれない、と私は考えています。 

 従って、「話しても何もならない」という通説ないしは訴えは、その人が「点」しか話さないからだというだけでなく、その人の話に「点」が形成されないからだとも言えるように私は思います。 

 もし、「点」として話すことができないのであれば、おそらく、その人は一時間の間に自分が何を話したのか明確にできないだろうと思います。漠然としたものを話したか、あるいは等質な一つだけを話したという体験になるのではないかと私は思いますので、そういう人はカウンセリングから有意義な体験を得られないのではないかと私は考えています。 

 

(評価) 

 以上の話を踏まえて、私はその人の話にどの程度「点」が形成されているのかを評価することになるのです。点が形成されている人とまったく形成されていない人との間ににはさまざまな中間段階があるわけで、どの程度「点」が形成されているかという評価が必要になるわけであります。 

 初回面接でその見立てがつくこともあれば、数回お会いした後でなければ評価できない場合もあります。というのは、初回面接時には動揺していたり、半分パニック状態になっていたりする人もあり、あるいは専門家と会うということで非常に緊張している人もおられるからであります。 

 同席者(配偶者や家族)の存在がそれに影響することもあるのです。同席者の存在を意識して、はっきりとものが言えなくなるといった人もおられるように思うのです。だから私のカウンセリングでは同席者不可としているわけであります。 

 その人が落ち着いている状態の時、安定が見られる状態の時のその人の語りを聴きたいと私は願うのであります。点を形成できないのが、その人の人格的な問題から来ているのか、状況や状態から来ているのか、その辺りも見極めたいと思うのであります。そのために何回もお会いする必要が生まれるのであります。それまで点を形成できるか否かという評価は保留になるわけであります。 

 

(再体験と再構成と再現) 

 さて、ここからは少し別テーマになるので、簡単に述べて終えることにします。また別の機会にて取り上げたいと思います。 

 過去経験を点として話すことができるというのは、その経験が過去に位置づけられていることを示していると私は考えています。 

 その経験が過去に位置づけらているということは、その経験を語りなおすことによって再体験することができることになります。それを再体験できるということは、再構成できるということにつながると私は考えています。つまり、より全体的に見ることが可能になるので再構成できるということであります。 

 しかし、それを点として語ることができないとすれば、それは過去になっていないということを示しているかもしれません。その場合、それは時間的には過去であっても、現在性を帯びていることになります。従って、その語り直しは、再体験というよりも、再現に近い体験になると私は思います。過去に経験したのとそのまま同じものを体験するのであり、これは再体験とは異なるものであると私は考えています。 

 ある体験が過去に位置づけられているということは、現在の私とその過去経験との間に距離(空間)があるということになると私は考えています。それが過去に位置づけられていないということは、私は今もその渦中にあるということになります。 

 建物の中の一室にいる限り、自分がどんな建物にいるのかは見えないのであります。外に出て(距離をとって)眺めることができて、はじめて自分のいた建物が見えるわけであり、あの辺りの部屋にいたのだなということも見えてくる、つまり全体の中の位置づけもできるものであると思います。 

 過去に位置づけることができないというのは、上述の例で言えばその一室に留まったままであるということになるので、そこしか見えないということも生じるのではないかと私は思います。そして、そこから時間的にも動かないということになれば、歴史も形成されなくなるのであります。自分の歴史を持たないということは、自分自身ならびに自分のアイデンティティを持つことができないということにつながると私は思います。 

 

 さて、話しても何もならない」という通説を足がかりにして、点と線の比喩を用いて考察してきました。まだまだ述べ足りないところもあるのですが、それは補足などの形で述べることができればと思います。また、その他のテーマとも重なってくるので、各テーマにおいて取り上げていきたいと思います。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

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