<#004-12>体験の個別性
カウンセリングのおける言語的活動、つまり「話す」ということについて、それを点と線という比喩的観点から述べています。
ここまでは「線」に関して述べてきたのですが、少し「点」の方にも注意を向けておきたいと思います。
クライアントは自分自身の話をされるときに、あたかも「点」として話されるのです。もともと私たちが「話す」という時には、そのように話すものであります。
「点」とここでは言っているのですが、この「点」はある程度の幅を持つものです。従って、一つの点の中に点と線がさらに含まれていることになり、それが一つのまとまりを形成しているので「点」として見ることができるわけであります。
ある人があることについて話をしています。話が一区切りついたと分かる瞬間が来ます。その時に一つの「点」が語り終わったことがこちらに伝わるのです。その「点」をさらに話し合うこともできれば、さらに別の「点」が語られることもあります。いずれにしても、彼らは「点」を話すのであります。
ここで問題にしたいのは、この「点」が形成されない人たちであります。そういう話をする人もおられるのです。
私はカウンセラーの仕事の一つはクライアントの話を終えさせることであると考えています(<#004-5>)。話を終えさせること、話を完結させることは、「点」を形成するということも含んでいます。では、なぜ「点」は「点」として形成されなければならないのでしょうか。
(体験の個別性の喪失)
もし、私がある場面のエピソードを点として語ることができないとすれば、そのエピソード並びにそれの語りは無境界なものとなります。無境界となるということは、その個別性が失われることになるのです。さらには、無境界であるためにさまざまな混淆が生まれることになるのであります。
混淆が生まれるというのは、一つの体験にその他の体験が容易に混ざりこんでくるということであります。そうなると、その人はそうした混合物を話すことになるので、聴いている方は訳が分からなくなるのであります。
しかしながら、混淆が生まれるとしても、訂正できるのであればいいのです。体験Aに体験Bが混じりこんでしまったとしても、「ああ、これは体験Bの方だったな」と修正できればいいのであります。
京都旅行の二人を例にしてみましょう。彼女たちが京都旅行を振り返りお喋りしています。一方の記憶がごちゃ混ぜになって、沖縄旅行の場面が京都旅行の場面と混淆してしまったとしましょう。それを聞いた方は、「それは京都旅行ではなくて、沖縄旅行の時の話だったわよ」と修正します。話した方も「ああ、そうだ、あれは京都ではなくて、沖縄旅行の時のことだったわ」と訂正できれば問題はないのです。こういうのは「錯覚」とか「思い違い」といった程度のもので、私たちは誰もが何らかの形で経験していることと思います。
今の例は、京都旅行に沖縄旅行の場面が混入してきたのですが、訂正できるということは、両者が区別できているということです。一時的に混入してきたとしても、二つの体験、二つの点が区別できているということに変わりはないのであります。
そのように記憶や回想が「点」を形成していると、体験ごとの区別がつくということになるのです。従って、点が形成されないということは、体験の個別性が喪失するということになるわけであります。
体験の個別性が喪失するとは、あの時の体験もこの時の体験も、すべて同じ体験であるということになるわけであります。あの人との間の体験も、この人との間の体験も、同じ体験となってしまうのであります。すべてが同一の体験となるから、個々の体験は点を形成し得なくなるのであります。
(体験は現在の感情によって脚色される)
すべての体験の個別性が失われた場合、一つ一つの体験エピソードは混淆していくことになります。あの時の体験とこの時の体験とは区別がなくなり、その人の中では同じ体験となるわけです。
あの時の体験とこの時の体験との区別が当人にはつかなくなっているので、あの時はああで、この時はこうだったと聞き手が指摘しても、当人には理解できないこともあるでしょう。
さらに、このような場合、現在の感情によって過去体験が脚色されてしまうという現象が生じるのであります。現在体験していることと過去に体験したこととの境界が失われているとすれば、現在の感情が過去経験を脚色してしまうことも生じるのです。。
少し不愉快な表現を使えば、「精神病的」な人ほどそのような現象を示すのであります。病的な人の話というのはそういう感じになることが多いと私は考えています。あの時とこの時の区別がなくなり、過去経験は現在の感情によってさまざまな脚色を受けるといったことが生じるわけであります。自我が機能しなくなっているので、混淆や脚色が生じてしまうのであります。
現在の感情によって脚色されるとは、例えばサングラスをかけて世界を見るようなものであります。サングラスをかけるとすべての色彩が黒っぽく見えるのと同じようなものであります。もし、現在、惨めな感情に襲われている人があるとすれば、その人は過去のすべての経験を惨めなものとして語るわけであります。いや、そもそも個々の体験の区別もなく、ただ惨めという感情だけがあるのであります。惨めな感情だけがあり、それをあらゆることに付与していくことになるのだと私は考えています。
例えば、夫を激しく嫌悪する一人の妻は、新婚旅行も最悪だったので、夫はその責任を取るべきだと訴えるのです。この夫が私のクライアントであったのですが、彼が言うには、新婚旅行は妻も楽しそうだったのに、ということであります。私はこの夫の言っていることの方が正しいと仮定していました。妻の言うことは、その時の気分や感情に応じて変動することがよく見られるように感じていました。従って、この妻は、夫を嫌悪する現在の感情でもって過去の新婚旅行のエピソードを想起していることが考えられるわけであります。そうして、本当は楽しかった旅行が、現在の感情で脚色されているのであります。
上述の妻は、少なくとも新婚旅行という点を抽象できています。これがさらに困難な人もおられるのであります。クライアントは母親で娘のことで手を焼いているという女性でした。娘は非常に長文のメールを母親に送るのです。私も拝見させてもらったのですが、私にはさっぱり意味が分かりませんでした。同じ場面を共有した経験のある母親なら分かるのかと思いきや、母親の方も娘が何を言っているのか分からないことが多いとおっしゃるのであります。
私はこの母親に、娘さんの話を聴いて、「それはいつのことを言っているの?」とか、「それはあの時のあの場面のことを話しているの?」とか、そういう問を挟んでみてほしいと頼みました。
ある時、母親が「それはどの年の話なの」といった問い(介入)を実際にやってみると、娘は非常に混乱したそうでありました。そして、それが分からない母親は親として失格だと娘は責め立てたのでありますが、これは論点のすり替えであります。
つまり、娘さんは過去体験を点として抽象できないということなのだと思います。点が形成されていないのであれば、娘さんの心の中は混沌としているはずであります。過去のあらゆる経験が混淆しあっているので、自分の中に混乱しか経験できず、整理がつけられなくなっているのだろうと私は思うのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)