<#1-13>録音について

 

 面接は録音します。

 この録音は、私が後で個人的に聞き直すものであり、他の人が聞くということはありません。

 かつてはカセットテープに録音していました。カセットは管理がラクでありました。今はICレコーダーを使用しています。聞き直すときはこのレコーダーで聞き直します。

 そして、レコーダーの容量がいっぱいになると、それを外部に保存します。いったんパソコンに入れ、パソコンからディスクに落とし、パソコンの方は消去して、ディスクを保管します。ディスクの保管場所は別に設けております。

 ディスクに落とした分を聞き直したいときは、ディスクから再びパソコンに入れ、パソコンで聞き直し、終了するとパソコンの方は消去します。

 ディスクの方は、あまり厳密にできないのでありますが、5年程度保管することにしています。厳密にできないというのは、継続中の人、再開した人の分などが含まれてくるからであります。

 

 なぜ、聞き直すかということなのですが、私は自分の耳を信用していないのであります。クライアントがこういう話をしたというのは聞こえるのですが、果たして本当にそのような話をしたのかどうかには確信がもてないのであります。だから、もう一回、確認したいという思いがあります。

 また、サリヴァンは面接を「関与しながらの観察」と表現されていますが、面接では関与の方に、録音の聞き直しでは観察の方をやっていきたいのであります。

 すべての面接を聞き直すというわけではないのですが、初回面接だけは必ず聞き直します。というのは、初回面接にすべてのテーマが表れていると言えるからであります、それを丹念に聞き直していくと、今後こういうテーマが出てきそうであるといった予測を立てることができるのであります。

 その他、クライアントの語ったことは覚えていても、どういう言葉使いをしたかなとか、ああいう言葉を使ったように思うけどどうだっただろうか、といった場合に、もう一度確認できるのがありがたいのであります。クライアントの表現でふと疑問に思ったことなどを確認したいのであります。

 

 ところで、心理学というのは非常に人が悪い学問でありまして、その世界に染まると人間が意地悪になってしまうようであります。私の個人的見解でありますが。

 これまでも、面接を録音してきたのに、どこにも面接を録音しますなどと記載しませんでした。クライアントは自分の話が録音されるということを知らずに受けに来られるのであります。そして、当日、その場で、私から録音をお願いされるのであります。クライアントは不測の事態に置かれることになります。不測の状況に直面して、その人がどのように適応するかを私は密かにチェックしていたのであります。

 録音を許可するにせよ拒否するにせよ、その状況に速やかに適応できるかどうかを見るわけであります。速やかな場合、良好な適応をする人であるか、後に述べるように、葛藤を抱えることができないか、ということになるのですが、それは後のその人の話の中で見当がついてくるのであります。

 

 次に、録音はクライアントから許可してもらえるか拒否されるかのどちらかになります。必ずどちらかに落ち着くのであります。

 ごく大雑把に言って、拒否する人の方が、許可する人と比べて、病理が深く、抵抗が強いという傾向を認めることができるのです。録音に関して、その人の安全保障感の程度を測ることができるわけであります。安全感・安心感が低いほど(だから病理が深いということになるのですが)、録音に対しての恐怖感が前面に表れ、拒否したくなるのであります。

 録音を許可してくれる人の中には、喜ぶ人もあります。自分のことを残しておいてもらえるという感覚があるようであります。つまり、そこで肯定的な感情を経験しているわけであります。そして、中にはカウンセラーに協力しようという人もおられるのです。録音する、それが自分のカウンセリングにとって有益となるなら、協力しましょうというわけであります。

 上記を踏まえると、録音を拒否する人の方が否定的な感情が強く、抵抗感が強いということが頷けるのではないかと思います。

 抵抗感が強いこと、病理が深いこと、加えて私自身が聞き直して再考することができないこと、それらの要因により、録音を拒否する人の方がカウンセリングの失敗の可能性が高いのであります。

 

 さらに、録音をお願いして、許可も不許可も決断できず、延々と逡巡するというような人もあります。これはその人の中に葛藤が生まれているということであり、その葛藤をその人がどのように処理するかという情報を与えてくれることもあります。

 こういう人は、葛藤を抱え、逡巡し、決断できないので、実にさまざまなことを私に質問してきます。録音してどうするのかとか、どのように保管するのかなどなどであります。こういう質問は決断するまでの時間稼ぎにしかならないようなものもあります。つまり、その質問をしても自分の内なる葛藤を処理するのにあまり役立たないだろうと思われるような質問をされるのです。私は敢えて質問されたことにだけ答えるようにするのです。その人が葛藤処理のために本当に必要な質問を出せるかどうかということも見てみたいのであります。言い換えれば、葛藤に対して、有益なことができるか無益なことをしてしまうのかという傾向を見たいというわけであります。

 こうした質問は、別の観点に立てば、葛藤処理の補助を必要としているということになるでしょう。従って、適切な補助を得ることのできる人であるかどうかということの評価をしていることになるわけであります。

 さて、この葛藤ということですが、これは端的に表現すると「カウンセリングは受けたい、でも録音されるのはイヤだ」ということになるでしょうか。この葛藤を最終的にどのように解決するかでありますが、どちらかを拒否されることで決着をつけることが多いのであります。つまり、両者を妥協させることができないということであります。

 その際に、自分が折れるというパターンがあります。カウンセリングは受けたいけど録音されるのはイヤだ、でも受けるためには録音を嫌々ながらも許可しよう、というわけであります。

 もう一つ、私に折れさせるというパターンがあります。カウンセリングは受けたいけれど録音されるのはイヤだ、だから受けるためには録音を許可させないでおこう、というわけであります。録音させてほしいという私の要望を私に断念させる方向性の決断でありますので、私の方が折れるということになるわけであります。

 自分が折れるか相手に折れさせるかということは、その人の適応スタイルと関連が深いと私は感じております。自分が折れるという人は、その他の場面でも自分が折れるというスタイルで適応していることが認められ、相手に折れさせるという場合でも同様であるように私は感じております。

 

 他にも、録音を拒否した場合にその人がどういう理由を挙げるかとか、どういう働きかけがその人の信頼感や安全保障感の向上に有効なのかとか、そういうことも評定したりするのですが、長くなるので別の機会に譲りましょう。

 要するに、私は録音をお願いすることで一種の「テスト」を試み、クライアントの評定を行っているわけであります。最近、この「テスト」に疲れてきたのと、録音をめぐってのやりとりの時間がもったいないという思いが強くなり、この場を借りてすべて解説することにした次第であります。

 心理学者(いや、私だけか)というものは、とかく意地悪なもので、すぐテストとかしたがるのかもしれない。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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