<T026-13>衰退の道(13)~反―大人になれない論(1)
どのような専門家であれ、そして僕のような専門家のはしくれであれ、現在生じている問題に関しては、みんな初学者である。現在進行している問題に関しては、何人もその専門家たりえないのである。僕はこれは重要な観点だと思っている。専門家と非専門家とは、過去から蓄積してきたものが異なり、問題を見る枠組みが異なっていたり、思考の組み立てが異なっていたりと、いくつかの点で異なっているにすぎず、専門家だからといって、現在生じている問題をすべて理解できているとは言えないのである。時には非専門家の方が鋭い指摘をすることだってあるが、それは専門家に非があるというわけではない。我々が直面する問題は、我々にとって常に新しい問題であるからである。
バイトテロや煽り運転、その他児童虐待なんかの現代社会を賑わしている諸問題に関して、専門家たちは「彼らが大人になれていない」といった説明をするのを、しばしば、僕は耳にする。
これは実に便利な理論だ。何かを言っているようで、実は何も言っていないのだけど、言っている方も聞いている方もそのことに気づかない。「なぜ、彼らはバイトテロをするか―それは彼らが大人になれていないからだ」という流れだ。まるで「なぜ、今日は晴天なのか―それは青空が広がっているからだ」と言うのに等しく、無意味な問答である。
もう一つ言えば、これはAC理論が含む無意味さである。なぜ彼はACなのか、彼の親が毒親だからだと言うのに等しいわけで、これは何一つ彼の説明にはなっていないのである。
彼らが大人になれていないという説明は確かに正しいものを含んでいる。しかし、本当に答えなければならないのは、彼らに何が起きているかということではないだろうか。何が起きているから大人になれないのか、その「何」の部分こそ答えなければならないことではないだろうか。
しかし、これに答えるには相当な困難が伴う。彼らと個人的に面接しない限りこんな問いには答えられないからである。
一方、もう一つの観点がある。もし、ある専門家が「彼らは大人になれない」と言う時、この専門家がそこで前提としている「大人」とはどういう人間であるのか、という疑問がある。つまり、「大人」というのは、そんなに簡単に定義できるものではないだろうし、どの部分を強調するかによって、「大人」像も異なってくるかもしれない。
この観点に関して、やはり無意味な問いが生まれる。大人とはどういう人間であるかを定義するのは難しいけど、「子供」を定義すれば自動的に大人が定義できるのではないかという問いである。「子供」の定義に該当しなければ「大人」であるということだ。しかし、これは同じ問を突き付けてくる。では「子供」とは何かという問いである。大人とは何かに答えるために子供とは何かに答えなければならないというのは、単に質疑が堂々巡りするだけである。あることを定義づけるのに、さらに定義の必要な概念を用いるためである。
まず、子供と大人という区別は法的に要請される概念である。子供に許される権利、禁止される権利があり、大人に許される権利、禁止される権利がある。双方に許されている権利もあれば禁止されている権利もある。このように考えると、子供と大人の違いは、与えられている権利の違いで区別されるだけである。そして、法的にはこの区別を年齢で決定しているに過ぎない。
従って、この法的観点に立てば大人になれない子供は存在しないことになる。誰でもある年齢に達し、大人の権利が与えられれば大人とみなされるからである。
そのことを踏まえると、「大人になれない子供」という時の「大人」とか「子供」というのは、法的概念ではなく、心理学的概念を指しているということになる。では心理学において大人と子供は何が違うのか。
両者の中間段階に青年期という段階を心理学では設定している。この青年期という時期は開始ははっきりしている。第二次性徴期の開始をもって始まるとされている。第二次性徴期の諸兆候が見られれば、その時点でその子は青年期に突入したということになるわけだ。
しかしながら、青年期の終了の方はそれほどはっきりしていない。自我同一性が確立し、社会に出ることといった論点で決定される。青年期の入り口は明確なのに、大人の入り口は不明瞭なのである。前者は可視的な現象であり、後者は不可視的な現象に基づいているということである。
大人になることのサインが不可視的であるということは、外見からはその人が大人であるかどうかの判断はできないということである。従って、ある人が大人であるか子供であるかは、その人の精神的な部分に目を向けなければならないことになる。
精神的な部分とは何か。一部の心理学者はそれは行動によって示されると考える。その人の心理や精神はその人の言動なり行為として、いわば間接的に、表現されるということである。僕はこれは正しいものを含んでいると考えているけど、この観点はその人の言動から内面を評価するということであるから、ここに評価者の問題が生まれる。その評価者が本当に正しい判断をしているか、正しく評価しているか、正しく理解できているかといったことが問われるようになる。一般心理学ではこうした問題をできるだけ最小限にするために実験が用いられることになるが、実験状況における個人の振る舞いがそのまま現実場面におけるその人の振る舞いを示すことになるかといった別の問題も生まれる。
要するに、一群の人たちの言動を理解するためには、厳密に実験状況を統制して、さまざまなシチュエーションで(変数を操作して)実験をしなければならなくなる。そうして得た結論は学問としては価値があるかもしれないけど、そんな手順を踏んでいる間に、新たな問題が生まれてしまうかもしれない。
こういうことを論じ始めるとキリがなくなるので、僕の結論を言おう。「大人になれない子供」という考え方は心理学的な前提に立っているのだけど、心理学でそれを十分に証明するには莫大な手間がかかるということである。もう一つ言えば、誰もそれを実験的に証明した研究者はいないのである。僕が知っている範囲ではそうだ。一人の人間が成長して大人になるということが、どういうことであるかを本当に知っている人なんていないのかもしれない。僕もそれは知らない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)