<T026-10>衰退の道(10)~儀式性 

 

 バイトテロの動画や煽り運転の映像なんかを日々見かける。ワイドショーなんかで取り上げられ、知識人たちが自分なりのコメントをしていたりする。僕はそうしたコメントに口出しするつもりはない。人によっては適格な指摘をされているなと感じるコメントもある。 

 しかし、それが儀式であるという観点には、僕の知る限り、お目にかかったことがない。煽り運転手にとって、煽り運転をすることは一種の儀式なのだ。何かのきっかけが生じると、煽り運転をするという儀式である。それが儀式である以上、その人のパーソナリティをいくら論じても的外れになるかもしれない。 

 バイトテロ行為もやはり儀式に過ぎないのかもしれない。仕事が退屈に感じられた時、あるいは辞職しようという時に、決まって行われる儀式であるかもしれないのだ。 

 インスタ映えするものを撮影してインスタグラムに挙げるというのも、やはり儀式なのだ。そのために行列に並ぶということも、やはり儀式に過ぎないのかもしれない。 

 儀式と必ずしも同じではないけど、それと似たものにルーティーンというものがある。例えば、僕が朝起きてから出勤するまでに、僕は決まりきった手順で準備をする。起床して、少し夢のことを考え、食事をし、シャワーを浴び、トイレと洗面を済ませ、着替えをし、布団をたたみ、昼飯の準備をし、荷物をまとめて家を出る。こうした一連の動作は、時には前後することはあっても、大体毎日同じように繰り返される。これは僕にとってはルーティーン化された行為である。ルーティーン化されることによって、僕はその都度迷わなくて済む。次は何をしようかななどと考えなくて済む。それによって効率よく作業が進み、速やかに出勤に至ることができるわけだ。 

 ここが重要なところだけど、ルーティーンはそれ自体が重要なのではなく、それによってもたらされる時間や労力が大事なのだ。一連の作業をルーティーン化することで、時間が節約され、心的なエネルギーの消耗も少なくでき、その分、他のことに時間やエネルギーを配分できるようになるわけだ。それがルーティーンの本質であると思う。それは創造や発展に資するものである。 

 儀式というものも同じような役目を果たす。本来なら複雑な手順を踏まなくてはならないものを儀式を実施することで処理できる。その儀式にも手順があって、その手順通りにやっておけば、無駄なく目的が達成できるということになる。宗教的儀式であれ、その他の日常的な儀式であれ、それをすることでこれからの人生に良いものがもたらされるという信念があるものだと思う。 

 しかしながら、そうした創造や発展、幸福、あるいは自己の清浄なんかの体験になんら寄与しない儀式というものもある。こういうのがしばしば問題になるわけだ。強迫的な人というのは、こうした無意味な儀式に囚われ、縛られ続けてしまう人である。その行為はどこにも発展せず、ただその行為をするための儀式に没頭することになるのだ。次に進むことのできない人たちと言っても間違いではないと僕は思っている、本来、次に進むための儀式が、そうならないというわけである。 

 儀式に没頭してしまうということは、その儀式に対して無条件降伏しているようなものであり、自己の無力さを示しているものである。そして、容易に予測のつくことであるが、自己が無力であればあるほど、その人は外側の儀式やルーティーンに頼らなければならなくなる。つまり、自分自身をどこにも方向づけることができないので、外部にその方向付けの力を求めるということである。 

 分裂病(統合失調症)の初期段階に強迫的な時期が見られることもあるが、これはよく頷けることなのである。自分が悪くなっていくのをどこかで感じているのだ。それを食い止めるために、すべてを律さなければならないということになってしまうのだ。そうしてすべてを儀式化、ルーティーン化しようとしてしまう。外側から律さないと自分がバラバラになってしまうと感じているのだろうと思うのだけど、こうして自分に関するすべてをルール化し、時には、他人にもそのルールに従わせるということも起きる。この場合、そのルーティーン化は、それによって何かが達成されるのを目指しているのではなく、ただ自分がこれ以上悪くならないために、自己を凝集させ、方向づけるためになされるものとなり、生の停滞をもたらすわけだ。 

 話を元に戻そう。僕がバイトテロ行為や煽り運転行為を彼らの儀式だとみなしているのは、彼らからそれほど確固とした自己を見ることができないからである。確かに、これは僕だけの個人的な見解かもしれない。そのことは認めたいとは思う。しかし、ある評論家が言うように、ハンドルを握ると性格が変わる人もあり、それが煽り運転になるという説も一理はあると思うのだけど、僕はそのまえにその運転手に性格形成がなされているのかという疑問を提示したいのである。時給を上げればバイトテロの彼らも真面目になるのではという説に反対はしないけど、真面目になるほど自己が凝集されている人たちなのかどうかが僕には疑問であるわけだ。それ以前の問題を彼らは提示しているのではないかと僕には思われてならないのである。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

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