<T026-09>衰退の道(9)~自殺と憎悪 

 

 自殺を広く定義するとすれば、「自身の生を自ら放棄すること」である。生を放棄するということは、その人が生を続けていたら獲得していたであろう将来を放棄することである。生命の放棄だけでなく、未来をも放棄するということである。 

 たとえ自殺や類自殺行為でなくても、自分の将来を閉ざしたり、あるいはその可能性を自ら手放したりする行為は、上述の定義に従えば、象徴的には自殺行為を表わしているということになる。 

 

 バカッター問題が世間を賑わしていた頃、僕はある企業の人事課に勤めている人から話を伺ったことがある。彼の話では、大学卒の希望者から採用候補を選び、さらにその候補に残った人たちがバカッター行為をしていないかどうか、かなり詳しく調べるそうである。それで、もしそのような行為をしていたことが発覚すればどうなるのかと僕が尋ねると、その若者を不採用にするとのことであった。 

 この一例だけで決めるわけにもいかないけど、他の企業も同じようなことをしていたかもしれない。ところで、彼が言っているのはどういうことであろうか。僕はこんなふうに聞こえる。 

 バカッターはその場限りのおふざけでそういう行為をしたと信じているかもしれないけど、企業はそうは見ていないということである。一度そういうことをやった人間は再び繰り返すと信じているのだ。そして、そういうことを繰り返すなら他所でやってくれ、ウチはゴメンだと言っているようなものである。端的に言えば、一度でもそういう行為をやらかした人間は信用しないということである。 

 こうして、その大学生がどれだけ優秀であっても、バカッター行為をしたというだけで彼はどこからも受け入れられず、どこからも排斥されてしまうのだ。この若者は自ら将来の可能性を閉ざしてしまっているのである。つまり、自殺行為をしたのである。 

 バイトテロも同じである。悪ふざけは一時的なつもりであっても、その一時で後々の長い人生を失うのである。これは自ら命を絶つことに等しいわけである。 

 

 自殺に関して、あまり論議を長引かせないようにしよう。内的に空虚なまま生きているということは、精神的には自殺しているに等しいと僕は考えている。だから引きこもりのような問題は自殺の問題でもあると僕は理解している。 

 また、間接的な自殺というものもある。死刑になるために犯罪を犯すなどである。さらに、事故に遭遇してしまうといった偶発的に見える出来事にも、自殺要素がないとは言い切れないとも僕は思う。過労死なんかもそうである。あるいは殉職なんかもそうだ。これらに自殺要素を見いだすことは十分可能であると僕は思うし、事実、メニンガーはそうした人たちをも自殺者と同列に置いているのである。。 

 

 さて、最後に自殺に関して皮肉ともいえる現象を記述しよう。それは憎悪である。憎しみの感情が、その人を自殺から守ってくれているという皮肉な例を僕は経験する。こういう人は自分の生命を維持するために、常に誰かを憎んでいなければならなくなる。もし、彼の憎悪が緩和してくると、確かにそれによっていきなり自殺こそしないけど、けっこうな厭世感情に襲われ始めたりする。 

 余談だけれど、戦争中は自殺が減るというのをよく聞く。死を日常的に見るためであるとか、戦争によって攻撃性のはけ口が与えられるからであるとか、そうした説明がなされることもある。どれも正しいと思うのだけど、敵国に対しての憎悪をはっきりと持つことが許されるという要因もあるのではないかと僕は考えている。 

 さて、憎悪によって自殺から守られていたという人は、結局のところ、憎しみながら生きるか、憎しみを捨てて自殺するか、そのどちらかしかなくなるわけだ。そのどちらも破壊を目指しているものである。彼には創造への道が閉ざされているのである。 

 なぜ、憎悪感情が払拭されると厭世感情に襲われるのかというと、自分の空虚に直面してしまうからである。彼は自分の空虚を憎悪で埋め合わせていただけであることを知るわけである。気づいた時には、自分が憎悪に囚われ続けてきただけで、人生の過程で何も獲得してこなかったのである。何もない自分を知ってしまうのである。僕はそのように思う。 

  

 自殺の話はこれくらいにしておこう。バイトテロも自殺も、自らの生を閉ざし、未来を捨てるという点では同じ問題である。根底にあるのは自己の空虚であると僕は思う。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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