<T026-06>衰退の道(6)~褒められたい 

 

 僕は賛同しないのだけれど、人は褒められて伸びると信じている人たち多い。人それぞれの考え方もあるだろうから、僕はそういう考えも「有り」だとは思う。でも、僕の考えでは、褒められて伸びるような人間はダメだ。そういう人はすべて外発的動機に基づいて行動することになると思うからである。 

 人が何かで伸びるのは、もっとその人の内発的な動機に基づいているものだと僕は思う。外部の動機は、それが仮にあるとしても、より小さな役割しか担わないものだと思っている。どういうことかというと、人が何かをするときには、内発的な動機に基づいているものである。これこれのことをしたいとか、これができるようになりたいとか、こういう人間になりたいとか、そういった動機である。その場合、それらを達成しても、ないしは上達が認められても、人はそのことで誰かに称賛されることを求めないものである。称賛はあくまでも付随的な経験に過ぎないのだ。 

 赤ちゃんが一生懸命に二足で立とうとしている姿をみてみよう。この子はそれができるまで何度も繰り返す。称賛や励ましはこの子には無縁だ。ただ、それができるようになりたいがために、ひたむきに、その努力をしているにすぎない。 

 それで、その子が立ったとしよう。親は喜ぶ。それはこの子にとってはフィードバックとして作用するけれど、それを得るために努力をしたのではないはずである。 

 しかし、一たび称賛を獲得してしまうと、その称賛を得るための努力というものが生まれてしまう。本来、内発的で自発的な動機であったものに外部の動機が混入してくることになる。これが行き過ぎると、内発的動機が縮小していき、外部から得られるもののためだけに活動が生まれるということになる。まあ、今のはいささか極端な話ではあると思うけど、外的報酬そのものが動機づけとして作用することがあるということだ。 

 そこから称賛や誉め言葉を過度に求める人たちが現れるのも当然である。彼はそれを学習したのだ。精神分析的に言えば自己愛的な満足がそれによって得られたという経験を積んだのだ。それで、困ったことに、自分を褒めることを強要するような人も現れるのである。 

 人から褒められたいというこうした願望と、フォロワーを獲得したいといった願望は同じカテゴリーの心理であると僕は思う。フォロワーや「いいね」を獲得したいということは、ネット上で注目を浴びるということである。 

 さて、ここからが重要なことなんだけど、たくさんのフォロワーを従えている人は、自分にはこれだけの追従者がいるということを表わしてくれているので、自分に自信が持てると感じたりする。そうして自分に自信が持てたのであれば、フォロワーを失っても構わないではないかと僕なんかは思ってしまうのだ。それだけのフォロワーを得るだけの人間であることが証明されればそれで十分ではないかと僕は思ってしまうのだ。 

 しかし、そうはならないようだ。フォロワーを失うことを過度に恐れたり、フォロワーが去った途端に無力感に襲われるという人もあるようだ。それを回避するためにはフォロワーをつなぎとめておかなければならないということになる。彼らを自分に引き留め続けなければならないということになる。こうして、彼らの投稿動画はますますエスカレートしていくのではないかと僕は思う。 

 ここにあるのは隷属関係である。彼がフォロワーを従えているのではなく、彼がフォロワーたちに隷属しているのだ。束縛されているのは彼の方である。彼はフォロワーたちの注目を常に集めていなくてはいられなくなる。彼の行為は過激になっていく。彼はそれをフォロワーたちへのサービスだと信じるかもしれないけれど、それはまったくの虚偽である。求められるから与えるのだと彼らは言うかもしれないけど、それが虚偽なのだ。本当は失いたくないから与えているのだ。閲覧数が多いというだけで自分が求められていると錯覚してしまっているだけなのかもしれないのだ。それはあくまでも錯覚なのだ。 

 彼はこうして自分が空虚であることをごまかす。フォロワーを失うということは、自分が無価値な人間になってしまうことを意味する。彼はこれを異常なほど恐れる。でも、これは、自分の中に自分で認めることのできるような価値が何もないと信じていることを表明しているに等しいのである。その価値はフォロワーたちがもたらしてくれるものであるということになっているからである。 

 彼は空虚であるが、偽物の何かで埋め合わせているので、自分が空虚であることに気づかない、乃至は、気づかないようにしているだけなのではないだろうか。 

 バイトテロの投稿動画であれ、迷惑ユーチューバーの動画であれ、彼らがそれをするのはフォロワーとか閲覧者のためなんかではなく、単に自分の空虚を埋めるためである。僕はそう思う次第である。それは褒められた時にだけ自分を感じるという、褒められてダメになる人間と同じであるというのが僕の考えである。自分の存在価値証明をすべて外部に任せきっているのである。自分自身の基準や指針を持たない人なのである。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

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