<T025-10>文献の中のクライアントたち(10)
文献の中で出会うクライアントたちを綴ることにする。今回より『民間精神病院物語』(谷口憲郎 著)所収のケースを取り上げる
本項収録のクライアントたち
(cl51)テレビで精神病院の内情を訴えたA氏
(cl52)アルコール依存の男性との非常勤医の経験
(cl53)自殺を図った躁鬱病の青年
(cl51)テレビで精神病院の内情を訴えたA氏
(A氏の訴えること)
A氏は二度に渡る精神病院入院の経験をテレビで語った。その内容は以下である。
ある時、母親と妻の3人で病院を訪れたら、何も診察せず、自分が納得しないのに不当に鉄格子病棟に入れられてしまい、その後はまったく医師の回診もなく、入院させられっぱなしだった。
このT病院の院長は婦人科専門の医師で、別に産婦人科を開業していて、精神科は片手間の仕事のようだから、尚更診察が少なかった。
しかし、入院生活は閉じ込められて、薬を飲むだけ、何一つすることもなく、食事は量、質ともに悪かった。
それでも一ヶ月ほどで退院できたが、2回目の入院はもっとひどい目に遭った。実父の家で、財産問題のこじれについて話し合いをして、酒を飲んでいたら、病院の看護人が来て、有無を言わさず麻酔剤を注射され、無理に入院させられた。あんまり無茶な仕打ちだから、大いに抵抗したが、押さえつけられてしまった。
(病院側の説明)
A氏が入院したというT病院の院長の話では、以下の内容が明らかになる。
A氏の最初の入院は昭和41年12月のこと。実母と同居していた女性に伴われて外来受診。家族の訴えは、「(A氏は)幼児より勝手気ままな行動が多かった。高校生の時肋膜炎で休学し、その頃、女性と駆け落ちをして、友人たちに袋叩きにあった。それ以来、性生活が思うようにいかないのを気にしていた。25歳で結婚し、子供が二人できたが、妻との間が上手くいかず、一年前に離婚した。この間も絶えず女性問題があったが、離婚したその年に再婚した。この妻は一年間に11回家出をし、このためA氏は非常に気を使っていた。別れた妻に復縁を迫ったこともあった。現在、二人目の妻は行方不明。また、現在同居中の女性も逃げられるのではないかとかなり不安になっており、時に刺激的になり、物を投げつけたりする。病床の母のところに、今日は話があると言っては押しかけ、話を聞いてくれないと窓ガラスを割り、花瓶を叩きつけるなどの行動をする。食欲は十分にあり、夜は同居女性が足の裏を掻いてやると休む」ということであった。
初診時のA氏は、多弁で落ち着きがなかった。家族の訴えも参考にして、「躁状態」と診断された。その背後には反社会的行動を伴う精神病質があるものと考えられた。
実母、及び、本人も入院を希望し、了解したので、入院することになった。
入院後、まもなく落ち着きを見せたA氏は、十分な精神療法を行った上で、28日で退院できる状態となった。
A氏のT病院への2回目の入院は昭和43年2月であった。実父、および、姉夫婦より往診の依頼があったので、医師は診察した。
父親の話では、父親の経営している鉄工場を自分に譲れとA氏が言ったのだが、父、兄、姉婿が本人にその能力がないと判断して、A氏の願いを断った。これに対してA氏は非常に怒っていた。最近では、特に金銭的にルーズになり、自分は子供なのに親は金をくれないと言って母親を脅迫、電話で殺人を行うと言ってくる。妻に他の女を世話しろと交渉に行かせたりする。とにかく、女、女で一日を暮らしていることが多い。
この日も鉄工場の問題で話しに来て、断ると暴言暴行を働くので、なんとか宥めて医師が来るのを待っていたということであった。
診察時、A氏は非常な病的興奮状態にあり、家族に対しても暴力的行為があり、医師の説得をどうしても聞き入れなかった。
家族の熱望もあり、このままでは家族も危険であることを認め、医師はやむを得ずA氏に麻酔薬を投与し、A氏が眠っている間に閉鎖病棟に入院させた。
この2回目の入院においても、まもなく、A氏は落ち着いてきた。入院加療についても十分感謝の意を表しており、51日目に、家族の都合もあり、A氏は退院となった。
以後、外来通院もなく、連絡が途絶えていたが、後に別の病院にて措置入院したことが伝わっている。
尚、このT病院の院長であるが、この医師はれっきとした精神科医である。ただ、卒業後、数年間、この医師は産婦人科を勉強した時期があり、それがA氏の主張(この医師が産婦人科で精神科は片手間にやっている)の根源であったのだろう。
また、比較的短期間で退院できているところから、「精神病質を基盤にする躁状態」という診断は妥当なものであったと思われる。
(患者側の訴えと病院側の説明とに食い違いがあるというケースである。どちらの言い分を信用するかは人それぞれとしても、僕はこの病院側の説明の方が信憑性があると信じている。
A氏はテレビにて訴えたのだが、僕はそのテレビを見たわけではないし、実際にどういう話がそこでなされたのか知らない。文章化された部分だけで判断すると、A氏の訴え方は心理的に病んでいる人に特徴的なものがある。
まず、経緯とか背景といったものがすべて排除されている。その瞬間ごとの出来事だけがやたらとクローズアップされている。例えば、冒頭の部分、母と同居中女性とで病院を訪れたというところから始まっているが、病院を訪れることになった事柄には言及されていない。続いて、何も診察せず、無理矢理入院させられたという話になっているが、医師が面接しているのに何も診察がないとはちょっと信じがたいし、入院に至る経緯とかやりとりはすべて排斥されている。細部が省かれている。僕の見解では、彼は自分に不満足であり、その状態で過去の出来事を見ているので、すべてが不満足なものであり、強制されたものと見えるのだと思う。
次にA氏は医師の批判をする。この医師は産婦人科医で精神科は片手間であると。仮にそうだとしても、彼が入院することになった出来事とそれは関係がないことである。
2回目の入院のエピソードでは、母親を脅していたことなどは一切省かれている。言い換えるなら、自分がされたことに対しては敏感であるが、自分がしたことに対しては否認されているようである。躁状態ではしばしば見られる徴候であると僕は思う。
病院側の説明では、A氏の訴えにおいて省略されていたところもすべて埋められている。A氏の訴えと比べても、論理的に整合性がある。
さて、A氏の時代はテレビだった。今では簡単にネットでこの種の訴えをすることが可能である。この人たちは臨床家を中傷するが、非専門家は専門家よりも患者の方に同調してしまうことが多いかもしれない。A氏の訴えがそうであったように、こういう中傷は受け取り手の感情に直接響くものがあるからだ。そして、受け取り手はその感情に従ってしまうのだと僕は思う。でも、そこには論理が欠落しているのだ)
(cl52)アルコール依存の男性との非常勤医の経験
「一昨年の春、私(精神科医)はY病院で中年の男性患者からこう訴えられた。『俺はどこが悪くて、こんなに長く入院させられているんですか?』と。彼は血色も良く、食欲も正常。作業療法もバリバリできる。
「彼の話では、二年前に北海道から神戸に出稼ぎに来た。大阪に着いて、一人で前途に祝杯を上げた。ところが飲みすぎて、路上に寝込んでしまい、気がついたときにはトラ箱の中にいた。そこからY病院に入院。
「診断は『アルコール中毒及び精神病質』。以後、鍵と鉄格子の中に幽閉されてきたと彼は言う。外に向かって訴えようにも、紙もエンピツも渡してもらえない。『自分はなんでもない』と言えば、看護人にすごまれる。殴られる。反抗すれば院長から『まだ興奮状態にある。暴行の危険性がある』と診断されて、退院は遠のくばかり。
「思い余って、新顔の私が回診中、直訴に及んだわけだ。私が、退院と家族調査について院長と相談することを約束すると、彼は『病院に来てはじめて人間に会ったような気がする』と言って、ひどく喜んだ。
「しかし、院長に話すと、『週一回の非常勤医に何がわかる』と一喝され、院長指示でまた新しい薬が処方されただけだった。
「私としては、この患者の治療や看護状態を毎日観察する立場にない以上、無力を感じつつも引き下がらざるを得なかった。
「こうしたことに嫌気がさして、やがて私はこの病院を辞めた。その患者がその後どうなったかは分からない」
(先のケースでは、患者側が間違っていて、病院側が正しいといったものだったが、今度はその逆のケースである。
この男性は2年間入院していることになる。きっかけはアルコール摂取にあったかもしれないが、それ以外の問題行動があったのかもしれない。精神病質という診断が並列されているので、一応、アルコール問題以外の問題があると想定することも可能である。
しかしながら、現在ではどちらの治療が、つまりアルコール依存の治療か精神病質の治療か、なされているのか不明である。
泥酔保護された場合、酔いが醒めると解放されるものである。そこから病院に入ることになったからには、何かそれに相応する問題があったのかもしれない。病院による不当入院の可能性もあるけど、患者の訴えをあまりにも鵜呑みしすぎることにも用心しなければならないと僕は思う)
(cl53)自殺を図った躁鬱病の青年
昭和41年某日の未明、14歳の時から繰り返し入退院していた青年が鉈で自分の左手首を叩き切って、自殺を図った。
その時、解放病棟の廊下から静かに出て行く足音を耳にした看護士は、外まで追ってみたものの、暗くて見つけられなかった。最近の彼は平静で、来月から就職することになっていたほどだから、早く目覚めて散歩にでも出ただろうと、この看護士は考え、詰所に戻った。
しかし、なかなか彼が戻ってこないので、看護士が再び外に出ると、薄明の庭で血に染まって倒れている患者を発見した。患者は、至急、外科病院に運ばれた。
Thが駆けつけたのは早朝であった。出血多量のために顔は蒼白となっており、患者が生と死の境目にあることが判断された。
患者は死の危険から脱することになったが、手首切断手術を受けていた。鉈と現場の血を見たとき、thは切断手術は止むを得ないことであると分かった。外科医のこの行為を、独断行為、人権無視として、どうして責めることができようか。
(この、おそらく年齢の若い、患者は、命と引き換えに左手を失うことになった。「命と引き換えに」の部分は素人には見えない部分である。素人は、切断なんてひどい、手があるのだからつなげてやるべきだといった考えをしてしまうのだろう。臨床家と一般の素人の間には超えがたい溝があるものだ。見えているものが異なるのだ。
看護士に落ち度はあったか。僕はそれはないと考えている。この人はおそらく誰にも気づかれないようにしていただろうし、看護士が追いかけてきても、闇に乗じて逃げるなり隠れるなりするだろう。実際、闇に身を潜めて看護士をやり過ごしたかもしれない。50年前の病院環境である。監視カメラが設置されているのでもないだろうし、人の目で監督することにも限界があるものだ。
これも一般の人が見過ごす部分であるが、自殺を試みる人はあらゆる手段を用い、あらゆる機会を利用し、それを成功させるために万全を期し、そのために完全に動くのである。仮に、彼がこの日は助けられたとしても、日を改めてこの人はそれを実行していたかもしれない。
幸運なことに、帰りが遅い、と看護士は再び彼のことに気づくのである。ここは彼の計画にはなかったことかもしれないけど、それによって、彼は命があるうちに助けられたのである。
しかし、こういうケースを見ると、「解放」が必ずしも望ましいとは言えない。拘束も、場合によっては必要であり、それが人命を救うことになることだってあると思う)
<テキスト>
『民間精神病院物語』(谷口憲郎 著) 有明堂
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)