<T025-06>文献の中のクライアントたち(6) 

 

 文献で出会うクライアントたちを書いていこう。今回から『精神分析の理論』より抜粋する。精神分析的な解釈が随所に顔を出すが、肝心なことは、ここには現実の人間が存在しているということである。 

( )は僕の見解等、clはクライアントを、thはセラピスト、カウンセラー、医師などの臨床家を指す。 

 

 本項収録のクライアントたちは以下。 

(cl26)錯誤行為の男性 

(cl27)分析セッションを取り消された男性 

(cl28)懲罰を再体験する男性 

(cl29)失敗した泥棒 

(cl30)瞠視症傾向のある男性 

(cl31)洞察を忘却した男性 

(cl32)知人の名前を忘れてしまった男性 

(cl33)言い間違いをした弁護士 

(cl34)妻を母と呼んだ男性 

(cl35)混成語を言った男性 

 

(cl26)錯誤行為の男性 

 ある若者が自分の結婚式に車で行く途中、信号のために一時停車をした。信号が変わった時、はじめて彼は自分が赤信号ではなく、青信号で停車していたことに気づいた。この若者が結婚にためらいの気持ちを抱いていることは想像に難くない。 

(分かりやすい例である。青信号で停車してしまい、到着を遅らせているようなものだ。もっと、結婚に対する抵抗があれば、この人は大きな事故に遭遇していたり、結婚式までに大きな病気にかかっていたりするだろう) 

 

(cl27)分析セッションを取り消された男性 

 thの都合で分析治療のセッション(面接)を取り消された患者の例。彼はいつもなら分析治療を受けに行く時間に、ヒマを持て余して、途方に暮れていた。そこで、最近買った旧式の決闘用ピストルを試射してみることにした。いつもならthと面接しているその時間に、彼は決闘用ピストルを的に向けて発射していたのだ。彼がthに腹を立てているということは間違いないようである。 

(もし、この人がピストルの暴発事故で怪我でもすれば、敵意だけではなく、敵意に対する懲罰、罪悪感の存在を仮定することもできるだろう) 

 

(cl28)懲罰を再体験する男性 

 自分の敵意的空想にひどく怯えていた人は、自分が腹立たしい思いをするたびに激しい不安の高まりを感じ、顔を殴られているような身体感覚を経験した。彼の超自我の働きは、子供の頃にたびたび両親から罰せられたのと同じように、誰かから身体的懲罰を受けるような感じで経験されていたのである。 

(身体記憶といっていいのか、身体感覚として過去を再経験することもある。もちろん、人によっては、ということであるが) 

 

(cl29)失敗した泥棒 

 彼は一年以上にわたって泥棒に成功していた。彼のやり方は、家が留守になるまで待ち、留守中に押し入り、指紋を残さず、現金以外は何も盗まないというものだった。警察は彼を発見しようがなく、彼は繰り返し泥棒を働くことに成功していた。しかし、ある時、彼はいつもと違うことをしてしまった。現金を盗むだけではなく、宝石をも盗んだのだった。彼がその宝石を質入したところ、彼は逮捕されたのだった。これまでの盗みで、彼が宝石に目を留めても決して盗まなかったのは、これを現金化すると必ず足がつくことを知っていたからである。彼は自分自身が逮捕され、投獄される手はずを無意識的に整えてしまったということになる。精神分析的に見れば、宝石を盗む行為へと駆り立てた彼の動機は、罰せられたいという無意識的欲求だったのである。 

(成功者がちょっとしたことで失敗し、転落してしまうというパターンの症状だ。懲罰欲求は常にあるもので、この泥棒も宝石を盗む時にそれが生まれたのではなく、それ以前からも彼の中にあったものだと僕は思う。ただ、その欲求は抑圧されていたのだと思う。つまり自我がよく機能していたのだと思う) 

 

(cl30)瞠視症傾向のある男性 

 瞠視症傾向のある男性が成長して、大人の悪習に反対する協会の積極的な支持者になった。ワイセツ写真の売人の発見と告発に彼はとくに熱中した。彼のこの活動は、男女の裸体写真を見つけ出すことに関係していたので、この活動は彼の瞠視症を無意識的に充足していたことになる。この見地は自我とイドとの葛藤に立ったものである。 

 自我と超自我との葛藤という見地に立てば、次の二つのことが言える。 

 子供のときに裸体を見たことで生じた罪悪感は、大人になって裸体写真を見たときには現れなかった。彼の自我は罪悪感を意識化しないことに成功していたが、その代わりに、その罪を他の人々に投影していたのである。そのため、瞠視症の願望と行為のために罰せられなければならないのは他の人々となったのである。 

 さらに、彼の自我は、彼の罪悪感に対して反動形成を確立し、そのためなんら意識的な罪悪感を感ずることもなく、むしろ裸体写真を探し出すことに熱中することによって、意識的には優越感と正義感を感じていたのである。 

(おそらく、彼がワイセツ写真の売人を見つけると、過剰なほどの懲罰を求めるだろう。その罪に対して不釣合いなほど大きい罰を求刑するだろう。正義感で動機付けられている人と罪悪感で動機付けられている人とで大きく異なる部分だと僕は思う) 

 

(cl31)洞察を忘却した男性 

 ある男性は、長年に渡って、自分の性的行動に関する恐怖と羞恥の感情を合理化によって回避してきた。Thからそれを指摘されると、彼は恐怖と羞恥の感情が自分の性的行動にいかに強く結びついているかに気づいた。彼はこの新しい洞察に非常に感銘を受け、それが自分の神経症症状の理解にとってとても重要であると感じた。しかし、一、二分後、彼がこの洞察がいかに貴重なものであるかを語っている時、彼はそれがなんであったかを突然思い出すことができなくなった。五分ほど前に自分が話していたことを彼は忘れてしまったことに気づいた。自分の性的行動に恐怖と羞恥が起こってくるのを防衛していたのと同じ心的力が、彼の新しく獲得した洞察(自分の行動が自分を恐れさせ、恥ずかしめていたという洞察)を抑圧させることになったのである。つまり、彼の自我は、性的に異常であるという恐怖や羞恥感情をさらに掻き立てる恐れのある聴覚的刺激(thの指摘)を抑圧したのである。 

 (僕も経験するところのものだ。何かを話していると、何について話していたのか、どこにこの話をつなげていこうとしていたのか、何がこの話のきっかけになったのかといった直近のことを見失うことがある。こういう時、僕の自我が何かを検出して抑圧が働いたと把握するのだけど、現実の場面ではどこでそれが働いたのかが分からないことが多い。もう一度、自分の発言を聞きなおさない限りは発見できない。僕が自分の発言はすべて録音したいと思うのはそのためでもある) 

 

(cl32)知人の名前を忘れてしまった男性 

 その男性clはよく知っている知人に社交の場で会った時、その知人の名前を思い出すことができなかった。彼はこのエピソードに関して、さまざまな連想を語る。 

 すると、その知人が彼のかつての知り合いと同じ名前であることが分かった。しかも、彼はそのかつての知り合いに対して強い憎悪の気持ちを抱いていた。そのために、かつての知り合いについて話す時には、彼は罪悪感を覚えるのだった。 

 さらに、社交の場で会った知人は身体不具者であった。このことは、彼が憎んでいる同名者を傷つけたいという願望を思い起こさせるものであった。彼は、不具の知人を見て、その知人と同じ名前を持ち、しかも憎み傷つけたいと願望していたかつての知人を無意識的に思い出したのである。彼は、罪悪感を生じさせる破壊的空想が意識化するのを避けるために、この二人を結びつける名前を抑圧したのである。この破壊的空想が意識に入ってくるのを防ぐために抑圧が生じたのである。 

 この身体障害のある知人は、出生時に受けた障害のために片腕が短く、麻痺していた。他方、彼が憎んでいるかつての知人に対して持っていた願望は、彼のペニスを切り落とすこと(性的不具者にすること、ひいては身体不具者にすること)だった。この場合、知人の障害のある腕は去勢を象徴していることになる。 

 (僕のクライアントにもそういう人がいた。ある人の名前からかつて嫌いだった人を連想してしまうのだけど、この二人は同じ苗字の人だったという。この事例が面白いのは、社交の場の知人が身体障害者であり、そのこともまたclの連想を刺激しているという点だ。憎んでいる相手をやっつけた後の姿を連想させるのだろう。ここには、名前の一致だけでなく、彼の空想も現実の情景と一致しているのである。)

 

(cl33)言い間違いをした弁護士 

 ある弁護士が、依頼者からの信頼を吹聴して、「私の依頼者たちは、彼らのもっともintimate(私的な)トラブルを話してくれた」と言おうとした。しかし、彼は実際には「彼らのもっともinterminable(飽き飽きする)なトラブル」と言ってしまった。この言い違いは、彼が隠したいと思っていたことを聞き手に暴露してしまった。つまり、依頼者たちが彼に話したトラブルは、彼をウンザリさせ、依頼者たちがもっと短く話し、彼の時間を取らないようにと望んでいたのである。 

 (こういう失敗をしてしまわないためには、この人に「依頼者の話には飽き飽きする」と言える場がなければならない。それを言う場所が彼にあれば、それを言うべきでない場面でそれが出てくることはないだろう。僕がブログでウンザリするだのイライラするだのということを書くのは、出すことが許される場で出しておく方がいいと思うからである) 

 

(cl34)妻を母と呼んだ男性 

 彼は初回面接において、自分の妻のことをお母さんと呼んだ。彼にはその理由が分からず、それどころか、自分の妻がいかに母親と似ていないかを話し続ける。彼の空想の中で、エディプスの絶頂期に結婚したいと思っていた母親の身代わりとして妻が存在していることを彼が意識化できたのは、分析を始めて数ヶ月が経ってからであった。 

 (妻を母と同一視する、もしくは夫を父親と同一視してしまっているという例はけっこうある。うまくいかない夫婦のケースではよく見られるものだ。この男性のように、現実には妻と母とはまったく似ていないと主張することで、この見解を退けようとする人も確かにある。でも、外見上の類似が問題なのではなく、その人の感情体験の類似が問題なのである。母と妻は確かに似たところなど全然ない二人だ。しかし、彼が母親に対して持っていた感情と妻に対して持っている感情が同一であるということなのだ) 

 

(cl35)混成語を言った男性 

 彼は若い頃にphysical culture(体育)に持っていた興味について話していた。その時、彼は誤ってphysible cultureと言ってしまった。この間違いをthが指摘したところ、physical とvisible(見える)とが混成してしまったことが分かってきた。そこから連想を進めていくと、他人の裸体を見たいと同時に自分の裸体を他人に見せたいという無意識の願望に到達した。この願望は、体育に対する関心の重要な要因でもあった。何よりも、この言い間違いは、彼の無意識的な露出症的、瞠視症的な願望が、physicalと言おうとする彼の意識的意図を邪魔することによって生じていることである。二つの単語が圧縮されて、混成語となったわけであるが、これは一次過程の思考様式である。 

 (言葉の圧縮の例である。圧縮とは一つのことに複数の意味が凝縮されることである。この例では単語が圧縮されたけれど、意味が圧縮されているような例もある。例えば、親に「出て行け」と子供が言ったとする。親が言われたとおりに出て行こうとすると、今度は「戻って来い」と子供が言う。親は訳が分からない。出て行けと言った矢先に戻って来いと言われるのは意味が分からないわけだ。これは親が二次過程の思考様式で子供の言葉を受け取っているためで、子供は一次過程の思考様式で言っているのかもしれない。つまり、「出て行け」の一言に、「出て行け」だけでなく「嫌いだ」とか「見捨てないで」とか、さまざまな意味が含まれているわけである。圧縮は当人から話をよく聞き、当人のことをよく理解できていないと全く意味不明である。圧縮されているものがよく理解できるようになれば、もっとその人のことを理解できるようになるのだけど、なかなか難しいものだ) 

 

<テキスト> 

『精神分析の理論』(C・ブレナー)誠信書房 より 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

  

 

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