<T024-25>高槻カウンセリングセンター便り集(25)
(本ページの内容)
・高槻カウンセリングセンター便り:73通目~悪化する人たち(13)
・高槻カウンセリングセンター便り:74通目~毒を薬に
・高槻カウンセリングセンター便り:75通目~不純な動機
・終わりに
高槻カウンセリングセンター便り~73通目:悪化する人たち(13)
何事もそうでありますが、順風満帆に右肩上がりで物事が進むことはないものであります。右肩上がりのように見えても、実際は上がったり下がったりを繰り返しながら全体として上がっていくものであると思います。
治療の経験もそうであります。良くなったり悪くなったりを繰り返しながら全体として良くなっていくものであります。心理療法であれ、身体的な治療であれ、そうであると私は思います。
だから一時的に下がるとか、悪化するという現象は普通に見られるものであると私は思います。ただ、それを一時的な悪化で終えることができるか、それとも一時的な悪化を永続させてしまうか、そこに一つの分岐点があると私は思うのです。
前回は前者のことを述べました。悪化が見られて苦しい思いをしてもカウンセリングを続ける人たちのことであります。この人たちはその悪化を一時的なものとして終えるのであります。後者は、そこで治療やカウンセリングを放棄してしまう人が含まれるのであります。
なぜ、それを永続させるようなことになるのか。前回は自己意識といった観点に少し触れました。異常意識に囚われすぎているといった人にとっては、悪化は一時的なものでも受け入れることが難しく、自分が異常であることの証明であるかのように受け取ってしまう可能性が高いであろうということを述べました。
その他、改善までの経験と悪化の経験とが切り離されているような人も私は見受けるのです。つまり、この人に観点に立つと、この悪化は全体のプロセスの一環として見られることがなく、改善までの体験とは別個のものとして体験されているのであります。自己の連続性の体験が乏しい人にこれが見られるように私は思います。
また、上記と類似するのですが、スプリッティングする傾向の強い人もおられるのであります。改善までの経験、そこに付き合った治療者と、悪化の経験並びにそれをもたらした(とみなされる)治療者とがその人の中で分割(スプリット)されているのであります。前者の経験(改善までの経験)は、後者(一時的な悪化の経験)を克服するために活用されることなく、完全に別個の経験となっているのであります。
さらに、短絡的に思考する人、あるいは短絡的に結論に飛びつくといった人もおられるのであります。一時的にであれ悪い体験をした、だからこの治療は意味がないとか間違っているとかいった結論に飛躍してしまうわけであります。
また、どうしても最初の理想を放棄できず、それにしがみついてしまう人たちもおられるように思います。それを放棄できないのはその人なりの背景があると思うのですが、ここではむしろ、その理想が更新されない傾向を取り上げたいと思います。
どうして自分の理想に変更を加えることができないのでしょうか。ある人はパーソナリティに柔軟性を欠いていることがあり、また別の人は過度に完全主義的であったりして、少しの変更も認めることが難しいといった人も見受けられるのであります。また自己縮小的な傾向の強いといった感じの人もおられます。本当はその理想は喪失しているのに、それを適切なものに変更することなく、あくまでもそれにしがみつく(自己を拡張できない)ので、この「悪化」は決して許容できないものになっていくようであります。
さて、述べ足りないところや言葉足らずのところもありましたが、「悪化する人たち」のシリーズは一区切りつけようと思います。「治る人・治らない人」を展開していくか、少し別のテーマを挟むか、今後の展開は今のところ明確になっておりませんが、引き続きお付き合い願えればと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
高槻カウンセリングセンター便り74通目~毒を薬に
2023年3月。今月も「便り」を送ることができるのを嬉しく思う。
高槻カウンセリングセンターのHPも少しずつコンテンツが充実してきて、わずかずつだけれど閲覧者も増えつつある。いい兆しである。
カウンセラーなどまず信用されないものだ。ましてや人一倍警戒心が強いといった人たちにアピールするのだから、信頼を得るまで長期戦で臨まなければならない。
実際、僕のことをサイトで知ってくれてから、現実に僕のカウンセリングを受けに来るまで相当な時間幅がある。半年や一年はざらであり、3年とか5年とかいった人もある。
今日、僕のことを知ってくれた人の一部とは現実にお会いできるだろうと思う。ただ、それは半年後か一年後かもしれないし、3年後や5年後かもしれない。でも、僕を知ってくれた人といつかお会いできると思うと、僕の中で希望も生まれる。
僕は僕の希望を生み続けるためにも書く。この希望を維持していくためにも書く。僕が書くと、それを読んでくれる人が現れるからである。
僕はあまり人付き合いが上手ではない。緊張もする。新しいクライアントと会う時はいつもすごく緊張する。そうは見えないとクライアントは言うけれど、前日は眠れないほど緊張することもあるのだ。
開業して18年。経験を積めば慣れるだろうと信じていたけれど、僕の見込み違いだったようで、いまだにそんな状態である。
でも、緊張してる分、実際にその人と会うと、却って、ホッとすることも多い。この人なら好きになれそうだと思えることも多い。その人のことが好きになれそうであれば、その人に力を貸そうという気持ちも生まれる。緊張感は僕にはクスリにもなっているようだ。
そして、それが一番重要なことだと思う。最近、ある臨床家の先生の話をクライアントから伺った。その臨床家のことをあれこれ言うつもりはないんだけれど、その人はもう少し人を好きになったらどうだね、と内心僕は思っていた。
ホント、人を好きになることは難しいことだ。僕の場合特にそうだ。でも、僕の対人緊張がその役に立っているのであれば、僕は僕の対人緊張を「治す」つもりはない。
病や問題も糧になるものだ。毒は薬に変えていけるものだ、とつくづく思う。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
高槻カウンセリングセンター便り~75通目:不純な動機
カウンセリングというと援助職とみなされる。確かにそうだ。しかしながら、僕自身は人を助けたいという願望がほとんどない。
僕がクライアントと会うのは、クライアントが料金を支払ってくれるからである。のっけからこういうことを言うとグーグルさんに削除されそうだけれど、もう少し辛抱して僕の見解を読んでほしい。
「人を助けたい」という動機には、「自分は人をどうこうできる」という心理が背後で働いているかもしれない。もっと言えば、「人を助けたい」は「人を殺したい」の裏返しであるかもしれない。
実際、そう見えてしまう例もある。カウンセラー(あるいはそれもどきの人)がクライアントに助言でもするのだけれど、その助言を守るとそのクライアントの死を早めてしまうのではないかと思われるような助言であったりするのだ。そうなるとこのカウンセラーはクライアントを助けたいのか殺したいのか、判然としなくなってくるのである。
今述べたような例は極端なものであるかもしれないけれど、「人を助けたい」ことに熱心な人であるとか、「メシア・コンプレクス」に囚われているような人を見ると、他人に影響を与えたくてしょうがない人たちだなと僕には思えてくるのである。
料金を払ってくれるから僕はクライアントと会い、仕事をするのだ。これはけっこう本音の部分にある動機である。僕は仕事の動機をそこに置く。それによって邪な動機が入り込まないようにしたいのである。
料金を払ってくれる人を好きになれたら僕としては素晴らしいことである。好きな人が来てくれて、その人が僕にお金を払ってくれる、僕としては最高の場面である。
金のために仕事をするのかと言われそうだが、僕はイエスと答える。
僕は思う。仕事をする、あるいは何かを始める場合でも、動機そのものは不純なものであっても構わないのである。不純な動機で始めたことでも、目指しているものが良いものであればオーケーだと僕は考えている。
しかしながら、「人を助けたい」からこれをやってますっていう人の方が、金のためにこれをやってますなどと言う僕のような人間よりも、一般的には信用されるものだと思う。そこに陥穽があるかもしれないのに、と僕などは思うのであるが、僕がひねくれ者だからそう思ってしまうのだろうか。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<終わりに>
本ページでは高槻カウンセリングセンター便りの第73通目から75通目までを収録しています。
73通目は継続中のシリーズである「悪化する人」の最終回となっています。改善の途上に見られる悪化を一時的なものとできるか永続させてしまうか、その要因は何であるかを私なりに考察しています。
74通目はちょっとした息抜きの回となった。病や問題はその人にとって糧になる。それがその人のその後の人生を方向づけることだってある。毒は薬にしていくことが可能なのであります。
75通目もブレークの回となった。人を助けたいという動機の背後には、人に影響を与えたいといった動機が潜んでいるかもしれず、人を殺したいという動機の裏返しであるかもしれない。僕はクライアントがお金を払ってくれるから面接をするのである。それ以上の動機をもたないようにしている。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)