<T024-18>高槻カウンセリングセンター便り集(18)
(本ページの内容)
・高槻カウンセリングセンター便り~52通目:「治る人・治らない人」(8)(「治る瞬間」が来る)
・高槻カウンセリングセンター便り~53通目:「治る人・治らない人」(9)(「治る瞬間」を信じる人たち)
・高槻カウンセリングセンター便り~54通目:「治る人・治らない人」(10)(治癒の発見)
・終わりに
高槻カウンセリングセンター便り~52通目:「治る人・治らない人」(8)
(「治る瞬間」が来る)
「治らない人」は、治るとラクになるという迷信を信じているのと同じくらいに、「治る瞬間」が訪れるという観念を信じておられることもあるように思います。
現実には、治療であれカウンセリングであれ、そこで劇的なことが起こることは稀であります。クライアントもいつの間にか良くなっていくのであります。いつ良くなったのかを特定することもできなければ、何があって良くなったのかを明確にすることもできないのであります。
私はそれでいいと考えています。治癒は無意識的である方が望ましいと考えているのであります。
これをやったから治ったなどといった観念に今度は縛られるようになるかもしれないからであります。だからそういう観念は無い方がいいと思う次第であります。
また、その観念に縛られるということは、後に述べますが、その人は「治る-治らない」の次元に留まることになってしまうと私は考えています。
クライアントたちは、どの人も自分が「治る-治らない」という次元でカウンセリングに訪れることが多いのであります。
「治る人」とは、その次元を超越していくのであります。自分が治ったかどうかということはもはや関心事ではなくなっていくのであります。その人にはさらに大きな次元のものが展望され、その次元のものに取り組んでいくようになるのであります。
「治らない人」は、「治る―治らない」の次元に留まり続ける傾向が強いように私は感じております。従って、この人はこの次元の軸上を行ったり来たりするようになるわけであります。治らないときは治ることを切望し、治ると再発を恐れ続けるといったことになるのであります。そこから超越していくことがないのであります。
「治る-治らない」という次元は、ある意味では、「病」ということに価値が置かれているのであります。「治る人」はそれ以上の価値あるものを見出していくのであり、「治らない人」はさらに価値あるものを見出していくことができないでいる、と言うこともできるかと思います。
ここに「病」が治ることと「私」が治ること違いが生まれてくるのであります。
仮に「病」がそのままその人に残ったとしても、そして引き続きそれに取り組んでいくとしても、「治る人」はより大きな価値を求め、目指していくようになるのであります。
だから「病気」があっても「病人」ではなくなるのであります。たとえ不治の病であっても、「私」が治るという可能性が人間にはあるものであります。私はそのように考えております。「治らない人」はその可能性に気づかないか、その可能性に価値を見出せないのかもしれません。
もし、「この病気が除去されない限り意味がない」などと考えている人があるとすれば、その人は、とりもなおさず、「病気」に過剰な価値を置いているのであります。その次元を超越していく道が開かれていないのであります。
(2022.9.19)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
高槻カウンセリングセンター便り~53通目:「治る人・治らない人」(9)
(「治る瞬間」を信じる人たち)
前回のテーマを続けます。
心が治っていく過程というものは、非常に緩慢であり、表面的には何も生じないものであります。非常に地味で目立たない過程であります。
そこには劇的なことなど何も起きないし、自分が「治った」と分かるような瞬間が訪れるわけでもありません。
もし、自分が治る瞬間が訪れるということを期待している人がいるとすれば、その人は「自分の問題や病を手っ取り早く手放したい」といった願望を有しているのかもしれないと私は考えています。
従って、この人は自分の問題や病というものを抱えることにも、それらを見ることにも耐えられないのかもしれません。それらに取り組むということもできないでいるのかもしれません。だから願望だけを求めてしまうのかもしれません。
そして、なぜ、できないかと言うと、それらが自分よりも強力であると体験されていて、主体が圧倒されていたり、主体が無力化されているからであるかもしれません。
それに圧倒され、無力化してしまうので、自分は何もせずとも奇跡的なことが起きて治る瞬間が来てほしいと信じてしまうのかもしれません。
「かもしれません」を連続しているので、なんとも覚束ない感じを受けるかと思いますが、それ(つまり治る瞬間がくると期待していること)に関する体験がなかなか当人から聞くことができないので私が推測している次第なのであります。
さて、人の心が治っていくといっても、必ずしも右肩上がりで順調に治るということはありません。
上がったり下がったりを繰り返しながら、全体として右肩上がりになっていくといった感じを私は受けます。良くなったり悪くなったりをクライアントは繰り返し、私もまたクライアントと一喜一憂してそれに付き合うのであります。
ユングはもう少し違った喩えを出しています。治癒は螺旋状に上がっていくと表現しているのです。クライアントはかつていた地点に舞い戻るのでありますが、以前よりも高い位置に立つということであります。ぐるぐる回りながら、全体として上がっていくというイメージでユングは捉えているようであります。私はそれもよく分かるという感覚を覚えます。
なぜ上がったり下がったりを繰り返すのかということですが、端的に言うと、変化を心が同化していくからであります。
カウンセリングの作業を通してクライアントが体験するものがあります。その体験したものをクライアントの心は取り入れていくのであります。カウンセリングに限らず、クライアントはその他の場面でも体験からさまざまなものを心に取り入れていくようになるのです。こうした「取り入れ」については今後述べる機会があると思います。
新しい何かが持ち込まれ、それが同化され、心の中で古いものと新しいものとが入れ替わっていくのであります。これが繰り返されるのですが、それが上がったり下がったり、良くなったり悪くなったりという形で顕現化するのであります。
(2022.9.19)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
高槻カウンセリングセンター便り~54通目:「治る人・治らない人」(10)
(治癒の発見)
治癒はその人の中で育まれていくものであります。それは身体の傷病でも同様であります。治癒は外から与えられるものではないのです。
その人の中で育まれた「治癒」は、発見され、経験されていくものであります。今回はその「発見」ということを述べようと思います。
人は自分の変化や治癒にどのようにして気づくでしょうか。
まず、自分で自分の変化や治癒に気づくことは、不可能とまでは言わなくても、相当困難であると私は思います。人は常に自分自身と関わりながら存在しているので、そのために自分の変化というものが見えなくなると私は思います。
現実には、その人の変化とか治癒とかいったことは、当人よりも、周囲の人が先に気づくことが多いのであります。
周囲の人が気づいて、それを何らかの形でその人に伝えるのであります。
直接的にフィードバックされる人もあります。つまり、「あなた最近変わったね」とか「なんか以前と違って穏やかになってるね」とか、当人に直接伝えられるものであります。私も過去にはこれを経験したことがあります。自分では何も変わっていないつもりでも、周囲の人が私の変化に気づいて、その人が意図したわけではなくても、それを私にフィードバックしてくれたのであります。
もう少し間接的にフィードバックされる人もあります。典型的な例としては、周囲の人との関係が変わることによるものです。例えば苦手な相手だったけれど、最近上手く付き合えるようになったという場合、その人の何かが変わったので相手の反応も変わってきたと考えられるのであります。実際、そうなのであります。
周囲の人が先に変化に気づき、それを当人に伝えるか、あるいは以前とは違った反応や態度を当人に示すことで、何らかの変化がその人に生まれていることが窺われるわけであります。
これは当人の主観的判断よりもより信頼性があると私は思います。当人が最近は良くなったと訴えても、誰もその人の変化を認めることがなかったり、それを窺わせるようなエピソードが語られなかったりすると、その判断を信じないわけではないけれど、私は「保留」することにしています。
これは、つまり、感情的正当性の優位さの現れである可能性があるわけで、その可能性が払拭されるまでは私の中で保留にしておくわけであります。
もし、本当にその人が「良く」なっているのであれば、周囲の人との関係性に変化が生まれるものと私は信じています。その人の「良い」に周囲の人が反応するはずであります。つまり、その人の中で生まれた「良い」は、周囲の人から「良い」反応を導く確率が高まるので、人間関係が良好になるはずなのであります。
以上を踏まえて、「治る人・治らない人」のテーマに入っていきたいのですが、分量の関係で次回へ引き継ぐことにします。
(2022.9.20)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<終わりに>
本ページでは高槻カウンセリングセンター便りの52通目から54通目までを再録しました。
52通目では、「治る瞬間」が来るという期待に関するものです。これは「治るとラクになる」という迷信と同じくらいに信じられている迷信であると私は考えています。心理療法では劇的なことなど滅多に生じるものではなく、このような期待をしてしまう人は地道なプロセスを耐えられないものと体験していたり、一足飛びで治癒に飛びつきたい気持ちが強かったりするのかもしれません。いずれにしても、「魔術的思考」の一種であると私は思うのです。
53通目でも「治る瞬間」という期待について継続してい綴っています。「治る」過程(あるいは上達とか達成とか克服とかの過程についても同じですが)とは、上がったり下がったりを繰り返しながら全体として上がっていくことであります。「治る瞬間」を夢見ている人はこの過程を受け入れることが難しくなるかもしれません。
54通目は、治癒は創造されるものであり、その治癒は発見されるものであるという経験に関するものであります。その発見は自身でなされるものであるというよりも、周囲の人によって、または周囲の人を介して発見されるものであります。
(2023年7月)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)