<T024-17>高槻カウンセリングセンター便り集(17) 

 

 

(本ページの内容) 

・高槻カウンセリングセンター便り~49通目:「治る人・治らない人」(5)(感情的正当性の優位~続き) 

・高槻カウンセリングセンター便り~50通目:「治る人・治らない人」(6)(「治るとラクになる」という迷信) 

・高槻カウンセリングセンター便り~51通目:「治る人・治らない人」(7)(「治るとラクになる」幻想) 

・終わりに 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~49通目:「治る人・治らない人」(5) 

 

(感情的正当性の優位~続き) 

 私が歯医者さんに行って、そこで痛い治療を受けたとしましょう。治療は痛かったけれど歯医者さんは間違っていないと、私は思うことでしょう。 

 感情的正当性が優位である場合、痛い治療を施した歯科医は間違っているということになり、その歯科医を延々と恨んだりすることも起こりえるかもしれません。その「間違っている」という判断がもっぱら自分の感情体験に基づいているわけであります。 

 

 直接的な痛みは伴わないけれど、カウンセリングのような作業ではクライアントが辛くなる場面も出てくるのであります。 

 例えば、その人の中に新しい何かが芽生えてきたとしましょう。それが徐々に古いものと入れ替わっていけばいいのでありますが、両者が半々くらいの状態になると辛くなるわけであります。新しい傾向がうまれているのに、時に古い傾向も出てきてしまうのであります。こういう時は当人も不安定になることが多いように思います。 

 しかしながら、それは本当は過程が進展していることを表しているのであります。ただ、当人にはちょっと苦しい時期になるのであります。その時に感情体験だけで判断して、この治療は間違っているなどと評価して中断してしまうなどといった例もよくあるのであります。 

 

 また、本人がこれまでしてこなかったことをするようになっていくと、最初は激しい形を取ることが多いのであります。 

 例えば、これまで自己主張することのなかった人が自己主張するようになると、最初はちょっと激しい形を取る場合があるということであります。主張が強すぎるとか、アグレッシブな主張の仕方をしてしまうとか、そういったことが起きるわけであります。 

 私が経験するところでは、最初は激しい形を取るけれど、徐々に適切なものに修まっていくことが多いのであります。 

 激しい形を取る時、当人はこれを「悪化」と評価するのであります。当人もこの激化を苦しいもの、不快なものとして体験していることが多いようであります。本当はそこから次の段階へと進んでいきたいところなのですが、この不快感情からカウンセリングは失敗だったなどと判断して中断するといったクライアントも私は幾度か経験しております。 

 

 その他、感情を爆発させた方が「ラク」だから、それが正しくて、感情を爆発させないように導こうとする私は間違っているなどと判断する人もおられました。それでカウンセリングを中断するなどするわけであります。 

 これは少しだけ補足しておくと、その感情の爆発や発散がその人の自我に親和性を帯びてしまうことを回避したいのであります。 

 

 何人かのクライアントは、感情的正当性が優位であるということの話を私がすると、自分にもその傾向があると認め、意識するようになったのであります。感情体験だけで判断しそうになると、この話を思い出して、判断を保留する人などもおられるのであります。 

 従って、この傾向を知っておくだけでも有益であるように私は思うのであります。 

 

 さて、今後も感情的正当性の優位という概念が繰り返し出てくることと思いますので、少しご記憶していただけると幸いに思います。 

(2022.9.9) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~50通目:「治る人・治らない人」(6) 

 

(「治るとラクになる」という迷信) 

 どういうわけか「心の病が治るとラクになる」と信じている人も多いようであります。 

 それは一部では正しくて、その他の部分では間違っているように私は感じております。 

 誰がこういう迷信を広めたのか私は知りませんが、あまり現実的ではないように私は考えています。 

 

 まず、「治るとラクになる」という命題を、「治るとラクに生きられる」という意味で捉えておられる方々もいらっしゃるように思います。 

 ラクして生きられるとか、ラクして人生が上手くいくとか、そのようなニュアンスのものとして理解されている方々であります。 

 それはまったく正しくないのであります。本当に「治った」人は、それ以前よりもはるかに多忙で困難の多い生を送るようになるのであります。生きがいや目的、自身の使命感や責任感などを引き受けていくようになるからであります。 

 

 この命題の一部正しいところは次の点であります。 

 つまり、「治った」人は自我がよく機能するようになるので、さまざまな場面に処遇していくことができるようになる、という意味において正しいのであります。 

 次のように言えば理解していただけるでしょうか。新規の状況に直面したり、新しい場面に適応したりすることは、「治る人」も「治らない人」も同じでありますが、「治る人」はそのための努力が容易になるのであります。 

 いずれにしても、「治るとラクになる」は迷信に等しく、決してラクに生きられるという意味ではないということであります。 

 

 さて、以上を踏まえて、「治る人・治らない人」のテーマに入りましょう。 

 「治る人」は次の段階に移行していくことを目的としてカウンセリングを受けるのでありますが、「治らない人」は自分がラクになることを目的としてカウンセリングを受けにくることが多いように思います。つまり、動機の部分に差異があるということであります。 

 

 「治るとラクになる」という幻想を信じている人は、自分がラクになっているかどうかで進捗を判断することもけっこうあります。 

 つまり、自分がラクになっていないから「治っていない」とか「効果がない」と判断するなどであります。これも感情的正当性の優位さの一つの現れであると私は捉えています。 

 また、現実の苦しい場面に直面して、それで自分が相変わらず苦しい体験をする(ラクにできていない)から、カウンセリングや治療には意味がないと判断するなども見られるのであります。 

 こういう例もあります。医師から「あなたはずいぶん回復しましたよ」と告げられたのに、本人はとてもその言葉を信用できず、その医師に不信感を抱いて治療を中断し、私のようなカウンセラーに意見を求めてきたのであります。 

 この人の話をよくよく窺うと次のような事情があったようです。この人がなぜ医師の言葉を信用できなかったかというと、自分が「ラク」を経験できていないからであります。自分はちっともラクになっていないのに、医師が治っていると評価するので、この人は自分が医師から見捨てられたような気持に襲われたのかもしれません。 

 

 さて、もう少しこの「治るとラクになる」という迷信について述べたいと思いますので、次回に引き継ぐことにします。 

(2022.9.14) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~51通目:「治る人・治らない人」(7) 

 

(「治るとラクになる」幻想) 

 前回の続きです。 

 「治るとラクになる」という俗説は、大部分が幻想であり、ごく一部分だけが正しいと私は考えています。 

 正しい一部分とは、その人の自我が機能するようになっていくので、努力や取り組みがより容易になされるようになるという部分であります。 

 自我が機能するだけではなく、当人の意識にも変化が生まれているのが常であります。自分自身に対する意識、人生に対する姿勢や態度などにも違いが生まれるので、「治る人」は努力を努力として評価していないということもあるのであります。 

 そして、「治る人」は自分自身や生をよりよくするために治療なりカウンセリングなりを求めるのでありますが、「治らない人」は自分がラクになるためにそれらを求めるという傾向があるように私は思います。 

 その傾向自体はまだしも、治療やカウンセリングの進展や効果などが自分がラクになっているかどうかで評価・判断されてしまうところに問題があるわけであります。「治らない人」は自分の感情体験(ここでは自分がラクになっているかどうか)だけで評価してしまうなどということが見られるのであります。これもまた感情的正当性の優位さの現れであります。 

 以上が前回に述べたことでありました。 

 

 さて、「治るとラクになる」というのは幻想であると私はここでは述べているのでありますが、そういうことを聞くと「治る」ことに失望する人も生まれるかもしれません。 

 私はそれでいいと考えています。人は失望や絶望から自分自身をやり直していくものであると私は考えています。 

 「これが人生か、ならばもう一度」と決意を繰り返したニーチェも何度もやり直した人だったのでしょう、ダンテ『神曲』のように天国を見るためには一度地獄を巡らなければならないというのも真実なのだと私は思います。 

 クライアントもカウンセリングのどこかで失望するものであると私は思います。期待していたようなラクは得られないことを知ってしまうとか、誰も肩代わりしてくれる人がいないということを知ってしまうとか、自分が自分で思っていたほどの善人でもなく特別でもなかったことを知ってしまうとか、当然の権利と信じていたものが当然でも何でもなかったという現実に向き合ってしまうとか、そういったことにクライアントは直面してしまうことがあるわけであります。 

 その時にクライアントが経験するのは失望感ではないかと思います。感情的正当性が優位であると、このような失望感をもたらす経験は間違ったものと評価されることでしょう。しかし、カウンセラーはその失望をクライアントとともに生きるものであると私は考えています。 

 失望して断念するか、ニーチェのように「ならばもう一度」と踏みとどまるかはその人次第であります。 

 本項のテーマに沿って言い換えると、「治るとラクになる」という期待や信念を固持し続けるか、それを放棄していくかの選択がクライアントに生まれることになるわけであります。 

 その人がどちらを選ぶかはその人に決定権があるのであります。私はその決定に従う次第であります。 

(2022.9.14) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

<終わりに> 

 高槻カウンセリングセンター便り集の17弾として、今回は49通目から51通目を再録しました。「治る人・治らない人」の一連のシリーズを展開しています。 

 49通目は、前回(48通目)の続きであります。感情的正当性の優位に関して続けて記述しています。この傾向は、治療やカウンセリング(その他のどんなことであれ)において当然生じる困難や苦痛などを耐えがたいものにするということであります。 

 50通目は「治るとラクになる」という幻想を取り上げました。これは決して真実ではないのであります。本当に「治った人」はそれ以前よりも努力を要する生を送るようになるのです。困難の多い人生を送るようになるのです。それ以上に価値のある何かがその人に生まれていることも結構見られることであります。その価値のために彼らは生きるようになるので、ラクになるために生きるのではないのであります。 

 51通目も「治るとラクになる」という迷信に関するものです。この迷信を信じている人(大抵のクライアントはそうでありますが)は、どこかで一度失望を経験しなければならなくなるのです。それでいいと私は考えています。失望や絶望から人は生きなおすものであると思うからです。 

(2023年7月) 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

PAGE TOP